バッカーノ! 1931 特急編 The Grand Punk Railroad 成田良悟 イラスト/エナミカツミ ターミナル『後日談』 1932年 1月 ニューヨーク某所 「遠路はるばる、この『情報屋』へようこそいらっしゃいました」 蝋燭《ろうそく》の明かりがぼんやりと輝く部屋で、銀行員のような服装をした男が笑いながら言った。 一見普通でありながら、その実、物|凄《すご》く違和感のある言葉と笑顔だった。 ここはマンハッタンの一角にある、目立たない場所に立っている小さなビル。肩書きは、新聞社の社屋となっており、実際にその発行作業も行っていた。ニューヨークタイムズの千分の一にすら満たない弱小紙ではあったが、それでもこの社屋を引き払うような必要はなかったのだ。 新聞の発行作業などは便宜《べんぎ》上の業務に過ぎず、副業にあたる『情報屋』としての仕事の方が遙《はる》かに収入の多い組織だ。 通常ならば、一箇所を拠点とする情報屋などはありえない。映画や小説などで見かけられるように、酒場の隅や路地裏でこっそりとメモを渡す——そんな雰囲気の方がしっくり来る職業だ。第一、場所が割れている情報屋などは何時《いつ》消されてしまってもおかしくはないのだから。 それにも関わらず、この社屋は新聞社の他に『情報屋』としての看板も掲げてしまっている。ある意味では情報屋の名に恥じる、立派な店舗を持ち合わせているという事だ。 消されないのには消されないだけの理由があるのだが、今回の客はそんな事など欠片《かけら》も気にはしなかった。ただ単純に、自らの求める『情報』について話を切り出そうとする。 受付の男は客の言葉に軽く頷《うなず》くと、そのまま地下にある個室へと案内した。 「さて、先日起こった『事件』についての事と伺いましたが……あの列車で何があったのか、お客様御自身は如何程《いかほど》まで御理解なされていらっしゃいますか?」 過剰気味の敬語を使いながら、受付の男は客の依頼についての話を切り出した。 「大陸横断鉄道特別急行列車『フライング・プッシーフット』。始まりは食堂軍。ここ、|N Y《ニユーヨーク》に向けて運行中の車輌《しやりよう》の中で、三つの強盗《ごうとう》が同時に乗り合わせてしまった。一つは黒服を纏《まと》ったテロリストの集団——通称『幽霊《レムレース》』。彼らの目的は、列車の乗客を人質《ひとじち》に取って、彼らのリーダーであるヒューイ・ラフォレットの解放を要求する事」 虚空《こくう》を軽く指差しながら、男はペラペラと当時の状況を語り始めた。 「そして、白服を纏ったマフィア崩れの集団。中心人物はラッド・ルッソ。シカゴに数あるマフィアの一つ、ルッソ・ファミリーのボス、プラチド・ルッソの親族にして——腕利きの殺し屋。彼らの目的は、金と快楽目的の無計画な殺戮《さつりく》劇」 客の事を意識しているのかいないのか、受付の男は実に楽しそうに話し続ける。 「そして最後の一つは——公式にはただの乗客となっておりますが、貨物強盗を企てた若者のグループの存在も確認されている、と。ついでに言うならば、彼らは通常の貨物には手を出していないようですな。ともあれ、この三つの集団が三つ巴《どもえ》の状態となり……最終的には強盗団の若者達が勝利を収めた。そこまでは宜《よろ》しいですかな?」 淡々と語る受付の男に対し、客は静かに頷《うなず》いた。 「それはそれは、大変結構なことで御座います。ここまでは関係者ならば知っていてもおかしくない事です。それではお尋ね致しますが、御客様はこの上にどのような駄文をお望みなのでございましょうか?」 慇慰《いんぎん》な態度の受付に対し、客はゆっくりと自分の求めるものを口にする。それを聞いて、受付の男は満足そうに頷いて見せた。まるで、最初からその言葉を予測していたかのように。 「成程《なるほど》成程、確かに承《うけたまわ》りました。『事件の裏側で起こっていた事』、お客様がお望みになる『情報』はそれで宜しいのですね?」 受付の男は椅子《いす》から立ち上がり、客の方へゆっくりと歩み寄った。 「確かに、中途半端な関係者ならばあの事件を忘れたがるのが普通ですが……なまじ深く関わってしまったのならば、全《すべ》てを知らない限りその欲求は満たされないものとなるでしょうな」 楽しそうに頷《うなず》くその一方で、受付の男の目には悲しみの色が湛《たた》えられている。 「いやいや、うちの社長は哀れだ。本当に哀れだ。お客様の望まれた『情報』は、社長が一番語りたがっていたのですが、こんな時に限って留守とは。ハハ、上手《うま》く行かないものですな。代わりに私が語る事のできる現実を、今はただ神に感謝すると致しましょう」 受付の男は、片|眉《まゆ》だけを大きく歪《ゆが》ませた笑みを浮かべる。 「さて、それではお話しすると致しましょうか。あの夜、あの事件の裏側では一体何が起こっていたのか、という事を」 不意に真面目《まじめ》な顔をして、男は客に対する『仕事』を開始した。 「さてさて、これから話す情報は、決してこの場ぞメモを取ったりしないで下さい。許されません、なりません。一文字たりともまかり通りかねます。この情報は貴方《あなた》の記憶の中にだけ留めておいて戴《いただ》きたい。全《すべ》て語り終えた後、思い出しながら書く分にはOKですよ。その時点からならば、既に貴方の主観と交じり合って『正確な情報』ではなくなりますから。……まあ、この仕事を続ける上での儀式の様な物だと思って下さい。たとえ建前《たてまえ》上でも『源情報』は情報屋と情報提供者だけが握っているものでなければならないという事です」 そこまで一気に語ると、受付の男は目を細くして客と目を合わせた。 「ここからは建前ではない話ですが、情報提供者については詮索《せんさく》しない事をお奨《すす》めしますよ。——死にますから」 客が唾《つば》を飲み込みながら頷いたのを確認し、受付の男はニッコリと微笑《ほほえ》んで椅子《いす》に戻る。 「あの列車に乗っていたのは、まさに悪人と呼ぶに相応《ふさわ》しいチンピラ達でした。勿論《もちろん》普通の乗客も乗っていたわけですが、割合が酷《ひど》すぎましたね。——ただ、フライング・プッシーフットに乗車していた不穏《ふおん》因子は、先述致しました三組の集団だけではありませんでした。その中には、チンピラと呼ぶにはあまりにも人間の常識を逸脱《いつだつ》している者達もおりましてね。一人は『葡萄酒《ヴイーノ》』と渾名《あだな》される殺し屋。今や都市伝説の類《たぐい》と混同される程の怪物……クレア・スタンフィールド。そして、もう一人は——」 男はそこで一度言葉を止めると、客を試すような口調でこう言った。 「お客様、お客様は「不死《ふし》者』というモノの存在を御存知ですかね?」 受付の男は楽しそうに口元を歪《ゆが》めたまま、相手の答えを待たずに詳述を再開する。 「己の道を踏み外して不死を手に入れた錬金術師《れんきんじゆつし》達。……いや、『不死』というのは正確では御座いませんな。正確な情報と致しましては、死ぬ方法、つまり殺す方法が一つだけ存在します。それは、相手の頭に自分の右手を載《の》せ——『喰いたい』と強く願う。たったそれだけなのです。そんな単純な『儀式』を経るだけで、相手の不死者の全てを奪う事ができる……命も、身体《からだ》も、経験も、知識も、時には感情さえも。全ては平等に、右手を介して己の内に取り込むことが…−つまり『喰う』事ができるという事です!——まあ、信じるか信じないかはお客様次第で御座いますが——これは、事実なのです」 プロローグ� 『錬金術師』 まったく、世の中が上手《うま》く行き過ぎて怖いぐらいだ。 200年以上もコソコソ隠れ回って、ようやく奴《やつ》らを『喰う』チャンスが巡って来たと思ったら——同時に、生きるのに暫《しばら》く困らない大金まで得る事になるとはな。 マイザーの手紙を受け取った時、最初は信用できなかった。あのセラードが『喰われた』などと。私はすぐに『今度の冬、会いに行く』という旨の返信をした。どちらにせよニューヨークまで行く予定があったので好都合だった。 私の研究してきた品……といっても副産物に過ぎないものだが、その『爆薬』がニューヨークのとある組織に売れる事となったのだ。 最初は軍と交渉しようかと考えていたが、私の名前が公になるのはまずい。もはやこの国の軍備は、名を明かさぬまま取引が出来るほどあやふやなものではなくなってしまった。『制約』により偽名《ぎめい》が使えない私にとって、それは致命的なマイナス要素だった。 仕方なく私はこの爆薬を他国の組織相手に売る事を考え、秘密裏に交渉を続けていた。 そんな折、私の元に二通の手紙が舞い込んだ。差出人は二通とも古い知人から。両方とも|N Y《ニユーヨーク》から送られていた。 何故《なぜ》私の身元が解《わか》ったのかと焦《あせ》ったが、手紙を読むに、二人ともNYの情報屋から私の所在を知ったそうだ。 なんという事だ、別の都市の情報屋にまで所在が割れているのでは、いつ私を『喰』おうとする奴らが襲ってくるか解《わか》ったものではない。 すぐにその場を引き払う事も考えたが、手紙の内容を読んで考え直した。 一通は錬金術師《れんきんじゆつし》仲間のマイザーからだった。NYで何らかの組織の会計をしているそうだが、詳しくは書かれていない。手紙には『セラードの存在が消滅した、だから安心して暮らしてくれ』との内容がしたためられていた。 セラード。200年前に我々が『不死《ふし》』を手に入れた時、即座に裏切って仲間を食い始めた糞爺《くそじじい》の名だ。おかげで仲間は散り散りとなり、現在では『共食い』を恐れてひっそりと暮らしている者が殆《ほとん》どだ。無論、私も含めてだが。 まったく、余計な事をしてくれたものだ。 あの時、セラードが早まっていなければ ——今頃は、私が全員を食らい尽くせていたものを。 当時はそんな事など微塵《みじん》も考えては居なかった。だが、散り散りに暮らすようになってからの辛《つら》い日々が、私の考えを大きく変質させていった。 私は一緒に逃げた錬金術師の仲間の一人と共に暮らしていたが、その生活は酷《ひど》いものだった。 貧困が辛《つら》かったわけではない。空腹はおこるものの、我々不死者は飢え死にする心配も無いのたから。 問題は、共に暮らす仲間の方にあった。 奴《やつ》は最初こそ私に対して優しかったが、次第にそのおぞましい本性を表し始めた。 セラードから身を隠す生活が落ち着き始めた頃——『奴』は自分の機嫌の良し悪しに関わらず、私に理不尽《りふじん》な暴力を奮い始めるようになっていった。怒りと共に笑顔と共に、悲しみでさえ共にして、まるで呼吸や食事と同じ様に自然な行為として、それは日々の生活の中に根付いていった。 日が経《た》つにつれ、それらの行為はエスカレートの一途《いつと》を辿《たど》る。幾ら傷つけても再生する身体《からだ》を弄《もてあそ》ぶように、時には実験を行うように、奴は私の身体をいたぶり続けた。 不死になったところで、痛覚までは無くならないというのに。 そして、奴もそれを知っていた筈《はず》なのに。 奴《やつ》は、口では様々な理由をつけてその行為を正当化しようとしていた。そして当時の私はそれにころりと騙《だま》された。あるいは理解していたのかもしれないが、拒絶すれば更に恐ろしい事になるような気がしていたのかもしれない。その痛みから逃げ出そうにも、当時の私は、一人で生きていく為の知恵も勇気も持ち合わせてはいなかったのだ。 歪《ゆが》んだ日々を送る最中、一つの知らせが舞い込んで来た。 奴が密かに連絡を取り合っていた仲間の錬金術師《れんぎんじゆつし》が、セラードに『喰われた』という知らせだった。 その日から、私に対する奴の虐待《ぎやくたい》は酷《ひど》くなった。最初は実験的な器具で私をいたぶっていたのに対し、それ以降は殴打《とうだ》やその他の単純な暴力も目立つようになる。器具を使った虐待は、前とは比べ物にならないほどに残酷な物になっていった。 私が疑問の目を投げかけると、奴は必要以上に恐れ、過去の数倍も言い訳を連ね始めた。その姿は私に媚《こ》びるようにすら受け取れ、どうしようもなく醜《みにく》かった事を覚えている。そんな私の視線に気付くと、奴はその顔を更に歪《ゆが》ませて殴りつけてきた。 そんなある夜、奴は私を食おうとした。 目覚めていた私は幸運だったのかもしれないし、あるいは近い内にこうなる事が解《わか》っていたのかもしれない。私は奴の右手を全力で払いのけ、そのまま散しい揉《も》み合いとなった。 積もりに積もった疑念と憎悪を振り絞った結果だろうか。一瞬早く、私の右手が奴の額《ひたい》を捉えていた。次の瞬間には、私は奴の全《すべ》てを己の掌《てのひら》に吸い込んでいた。身体《からだ》も、記憶も、心でさえも。 そこからが地獄だった。奴の知識の中に見たものは、私に対する歪みきった感情と、いずれ私に『喰われる』のではないかという恐怖だけだった。結局私は奴の歪んだ欲望のはけ口でしかなく、信頼などという物は欠片《かけら》も存在しなかったという事だ。 自分が最も見たくなかった物が、吐《は》き気を催すようなヴィジョンが自分の記憶として頭の中に食い込んでくる。もはや自分自身の記憶として、その禍々《まがまが》しい知識と共に生きていかなければならなくなったのだ。 裏切られた感情と、裏切った相手の記憶。この相容れない二つを併せ持つ苦悩の中で、私は今まで生き続けて来たのだ。 私は不老《ふろう》不死《ふし》の法則どおり、精神だけが成長を続けていった。 そして私は、この世に生きる連中が如何《いか》に卑怯《ひきよう》で汚く矮小《わいしょう》な存在かを思い知らされた。 何時《いつ》しか私は、自分の欲望に忠実に生きるセラードに憧れすら抱《いだ》いていたが、あの糞爺《くそじじい》は私の事など餌《えさ》ぐらいにしか思っていなかっただろう。 それでいい。私もこの世の自分以外の存在は、全て自分の餌だと思う事にした。所詮《しよせん》誰も信用できない世の中なら、私はその全てを利用して生きていくまでだ。そして私は世の中の全ての人間を自分と同じ肉体とし、その全てを喰らい尽くす事を夢見るまでに至ったのだ。 その為に私がやらなければならない事は、船に乗っていた仲間を全《すべ》て喰らい尽くす事だ。 セラードはいずれ誰かに返り討ちにあうだろうとは思っていた。だが、自分ならその『続き』を為す事ができるだろう。その自信もあった。 あいつらは私には優しかったし、恐らくは私が前のままの私だと思っているのであろう。おまけにセラードと違い、私の意思を知った時には私に既に食われているのだ。私の意思が他《ほか》の錬金術師《れんきんじゆつし》に伝わる事はありえない。 向こうから襲ってくるのは恐ろしいが、自分から仕掛ける分には自信がある。 私はマイザーの手紙に返事を書いた。ただ、会いたいという内容を記して。 奴《やつ》に会う日時は決まっていた。もう一通の手紙がそれを決定させた。 もう一通も、|N Y《ニユーヨーク》にいる古い知人からだ。マイザーと通じているのかと思ったが、どうやら全く別口の用件のようだ。手紙の内容は、私の研究の副産物である『爆薬』を所望するというものだった。 もう一人の錬金術師は、ルノラータ・ファミリーとやらに身を潜《ひそ》めさせているようだ。 渡りに船だ。大金が入る上に、マイザー共々そいつを喰らう事ができる。それにマイザーを喰えば、セラードが貯めた知識もそのまま手に入れられるという事だ。 自分の欲望が叶《かな》う姿を想像し、気がつくと私は笑っていた。 爆薬を運ぶ列車が決まった。 『フライング・プッシーフット』。鉄道会社とは独立した一企業が経営する特殊な列車で、裏では酒の密輸などを行う便利な列車だ。 私は家にある金を掻《か》き集め、大量の爆弾をその列車に積ませる事に成功した。 いよいよその列車に乗る時がやってきた。搭乗口《とうじようぐち》で車掌《しやしよう》が乗車名簿をチェックしている。 そのまま通り過ぎようとしたが、車掌は目ざとく私を呼び止める。 「キミ、一人で乗るの?名前を教えてもらっていいかな」 色々気にかけられるのは、この姿の利点でもあり欠点でもある。だから私は、出来るだけ利点が大きくなるように振舞う事を心がけている。 現に、さっきぶつかった男も何も文句を言わなかった。まったくもってちょろいものだ。 登録に偽名《ぎめい》が使えないのは不便な物だ。私は出来るだけ子供らしい顔と口調で、礼儀正しく自らの本名を名乗りあげた。 「——チェスワフ。僕の名前はチェスワフ・メイエルです。チェスって呼んで下さい!」 プロローグ�『作業着の女』 その日レイチェルは作業着を纏《まと》い、遠出の準備を整えていた。 今回のターゲットは、個人経営の特殊な列車『フライング・プッシーフット』。|N Y《ニユーヨーク》駅まで直行なので、一度乗ってしまえば途中てチェックされる恐れはない。後は、車掌《しやしよう》から如何《いか》に隠れ通すかだ。要するに彼女は無賃乗車の常連だった。これまでに千を越える列車に切符を買わずに乗りこみ、その全《すべ》てを成功させている。 罪の意識など欠片《かけら》も無い。これは仕事であり、復讐《ふくしゆう》でもあるのだから。彼女の仕事は情報屋の使いパシリだ。アメリカ各地の情報を現地で収集し、情報屋に売るのを生業としている。 NYに存在するその情報屋は、各都市から直接伝わる『生きた情報』を何より高く買ってくれた。また、彼は電話では無く直接情報を聞く事を好む。相手の目を見て、それが嘘《うそ》かどうかを判断しやすいからだそうだ。おかしな男だったが嫌いではなかった。受付の慇懃《いんぎん》無礼な男だけはいけ好かなかったが、その他《ほか》の面々とは友人のような関係を築いている。そもそも、情報屋なのに組織の形式を取っている事が異常なのだ。社長が少しぐらい変わり者なのは当たり前の事だろう。レイチェルはそう思いながら、良好な関係を保って取引を続けて来た。 その情報屋の社長は、レイチェルに様々な質問をする。その都市に関する脈絡《みやくらく》の無い質問を次々と答えさせ、通常では見えない情報を分析するのだそうだ。彼女には良く解《わか》らなかったが、情報を買ってくれるなら何でも構わなかった。 レイチェルは常に様々な都市を飛び回る。通常の情報屋はそこまではしない。というよりも、他《ほか》の都市の情報まで欲しがる情報屋の方が珍しいのだ。 第一、通常ならば電車代が馬鹿《ばか》にならない。それでろくな情報が得られないとなれば、利益を上げるどころか即《そく》廃業だ。 だが、少なくともレイチェルにその心配は無かった。移動に使用する列車は、全《すべ》て無賃乗車で済ませているのだから。 「これは、復讐《ふくしゆう》なんだ」 昔彼女は、情報屋の社長にそう言った事がある。 レイチェルの父は、ある鉄道会社で整備技師を務めていた。 非常によくある話だ。ある時部品の破損事故が起こり、会社はその過失を全てレイチェルの父になすりつけた。実際の原因は、部品の新調を訴える現場の声を無視した重役達にあるのに。 部品を変えなければ危険だと訴えていた父がその責任を問われるとは、何と馬鹿げた話だろう。訴えようにも証拠が無く、技師の仲間達は失業を恐れて口を閉ざした。 何時《いつ》の時代でも、笑えるぐらいよくある話だ。レイチェルはそうして苦労を負わされた父を見て育ってきた。 一つの鉄道会社に対する嫌悪は、やがて鉄道そのものにまで広がっていく。 だが、父は列車を誰よりも愛していたのも事実だ。いつか鉄道に復讐してやるという思いと、父の思いの間で彼女は揺れ動き結局は、無賃乗車という復讐手段を選ぶ事になった。これなら確かに列車や乗客に被害を与える事も無く、鉄道会社に被害を与える事ができる。もっとも実質的には損失を与えられない、単なる自己満足の行為でしかないのだが。いや、法を破るというリスクを考えるならば、自己満足どころかこれは立派な自傷《じしよう》行為と言えるだろう。 それでも彼女は、自分自身の怒りを抑える為に無賃乗車を続けているのだ。あるいは、無賃乗車の中に自分の生きる意味を探しているのかもしれない。 それを聞くと情報屋の社長は、『それはいい事だ。じゃあ、それが見つかったら切符を買うといい。今まで無賃乗車した分の切符も買うといい。鉄道会社じゃない、キミの父親に金を払ったと思えばいい』そう言って静かに笑った。 父の為に切符を買う。果たして自分にそんな日が来るのだろうか。列車に揺られながら、彼女はいつもそんな事を考える。 今日、シカゴで様々な情報が飛び交った。ルッソ・ファミリーを取り巻くゴタゴタや近郊の工場が爆発した話など、社会の裏側では怒涛《どとう》の勢いで情報が闊歩《かつぽ》していた。その話を電話で連絡すると、情報屋は是非《ぜひ》とも直接会って話が聞きたいと言ってきた。 ちょうど今日の夕方には『フライング・プッシーフット』が|N Y《ニユーヨーク》に向けて発車する筈《はず》だ。何処《どこ》かの金持ちが造った道楽列車。レイチェルが一番嫌うタイプの列車だ。 金が無いわけでは無いが、乗車には決して金を払わない。その歪《ゆが》んだ信念を貫き通す為に、彼女は今日も駅に向かう。 『フライング・プッシーフット」の車輌《しやりよう》、特に貨物室周辺を念入りにチェックする。無賃乗車でレイチェルが一番世話になるのがこの車輌だからだ。ところが、そこで嫌《いや》な話を聞いた。 貨物車輌に、どこかの楽団が見張りを置くというのだ。彼女はその事への対処を考えながら、連結部の様子をチェックする。いざという時には、ここからは屋根の上にも車輌の下にも行けるからだ。この列車は車輌の下が通常の列草よりも僅《わず》かに広く造られていて、レイチェルは『これなら楽に下に潜れそうだ』と、常人では考えないような事に対して安堵の息を漏らしていた。 その時、レイチェルは奇妙な黒服の男女に出会う。楽団員の格好をしているのだが、異常に鋭い目をしており、どうみてもカタギの人間とは思えない。とりあえずその場は退散する事にしたが、レイチェルは暫《しばら》く女の視線が刺さるのを感じ続けた。 「あいつらには近づかない事にしよう」 そう思いながら、彼女は発車のベルまで待ち続けた。車掌が列車に乗ったのを確認すると、彼女は駅員の死角から列車に忍び寄る。そして実に鮮やかな動きで列車に飛び移り、連結部の下に潜り込んで行った。 そして今、発車のベルは鳴り響く。 プロローグ� 『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』 夜もふけた頃の車掌《しやしよう》室で、若い車掌と年輩の車掌が雑談に明け暮れていた。 「あ、知りません?『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』の話」 若い車掌は、怪談の中でも特にこの話が大好きだった。どうも自分は怪談を話すのに向いていないらしいが、この話は誰が話しても後味《あとあじ》の悪い恐怖感を残す事が出来るからだ。 先日バーテンダーのヨウンに話した時には『くだらねえ』の一言で済まされてしまったが、この先輩は一体|如何《いか》なる反応を返してくれるだろうか。 「いや、単純な話ですよ?闇夜《やみよ》に紛《まぎ》れて、列車の後を追いかける怪物の話なんですけどね?」 「怪物?」 「ええ。そいつは闇《やみ》に同化して様々な形を取りながら、少しずつ少しずつ列車に近づいてくるんですよ。それは狼《おおかみ》だったり、霧だったり、自分が乗っているのと全く同じ形の列車だったり、目の無い大男だったり、数万個の目玉だったり……とにかくいろんな格好をして、そいつは線路の上を追いかけてくる」 「追いつかれるとどうなるんだ?」 「そこなんですよ、誰も最初は、追いつかれたのに気が付かない。でも、何か異変が起こってるってことには、みんな確実に気が付いていくんです」 「どうしてだ?」 「人がね、消えていくんですよ。列車の後ろの方から徐々に、ひとりずつ……そして最後にはみぃんな消えて、その列車の存在自体が無かった事になってしまうんです」 そこまで聞いて、年配の車掌《しやしよう》が当然の疑問を口にする。 「ならなんで、その話が伝わってるんだ?」 予測していた質問に対し、若い車掌は顔色一つ変えずに答える。 「そりゃ当然、生き残った列車もあるからっすよ」 「どうやって?」 「まあまあ、ここからここから。この話には続きがありましてね」 楽しそうな顔をしながら、話の肝となる部分に踏み込んでいく。 「この話を列車でするとね、来るんですよ。その列車に向かって、『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』が!」 その話をした途端《とたん》、どうも車掌の顔色が呆《あき》れたようなものに変わってしまった。 ——しまった、ちょっと明るく言い過ぎたかな。 そうは思ったものの、今更|止《や》めるわけにもいかない。 「でも、来ないようにする方法が一つだけあるんですよ!」 「ちょっと待て、時間だ」 そう言って、先輩の車掌が機関室への合図のランプに光を灯《とも》した。 ——ここからがいい所なのに。 若い車掌は早く話したいとそわつきながら、先輩の作業を目をギョロつかせて見守っていた。 この列車も、せっかく金をかけているのだから機関室との間に無線装置でもつければいいのに。若い車掌はそう思っていたが、車輌《しやりよう》の両脇に膨《ふく》らんだ輝きを見て考え直した。この列車は機能性などよりも装飾や雰囲気を重視した造りになっている。この事務的な合図も、傍《はた》から見れば列車の側面の彫刻をライトアップしている事になるのだろう。いかにも成金《なりきん》企業の考えそうな仕組みではないか。そして、その成金企業に雇《やと》われている以上は文句を言っても仕方の無い事だろう。若い車掌は雇われの身である自分の立場に苦笑と溜息《ためいき》を漏《も》らしていた。 それと同時に先輩の作業が終わり、若い車掌は満面の笑顔で話の続きを口にしようとする。 「ええと、すみません、それで、助かるには……」 「ああ、待て待て、その答えを先に聞いたらつまらないだろう。俺《おれ》も似たような話を知っているから、先にそっちを聞いてからってのはどうだ」 それは面白《おもしろ》そうだ。この手の話に目が無い若者は、彼の話を聞きたくて仕方がなくなった。 「助かる方法を後で交後するってわけですね、面白いじゃないですか」 その言葉に、年配の車掌《しやしよう》が奇妙な目を向けてきた。まるで嘲《あざけ》りと憐《あわ》れみが入り混じったような、そんな日をしている。若い車掌は気になりはしたが、新しい怪談を聞く事の方が先決だ。 「なあに、どこにでもある単純な話さ。これはある『幽需《ゆうれい》』の話なんだが……その幽霊達は、死ぬ事を恐れるあまり、生きながら幽霊になってしまったんだ」 「? はあ」 「だが、幽霊には偉大なリーダーがいた。そのリーダーは、自分たちが生き返るために、自分たちが恐れていたものを、自分達の色で染め上げようとしたんだ。だが、そいつは、このアメリカ合衆国は、そんな死人が生き返ってくる事を恐れやがった!そしてあろうことか、その幽霊のリーダーを墓場の中に閉じ込めようとしていやがる!」 話の内容はぴんと来ないが、語る男の顔と口調に、徐々に怒気《どき》が籠《こも》り始める。若い車掌は、背筋に何か走るものを感じた。 「あ、あの、先輩?」 「そこで、だ。残された幽霊達は考えた。上院議員の家族を含めた百人以上の人間を人質《ひとじち》に取って、リーダーの解放を要求しようとな。事件を公にすれば、この国は絶対にテロリストの要求は飲むまい。だから交渉はあくまで秘密裏に別働隊《べつどうたい》が行う。奴《やつ》らに冷静な判断をする時間は与えない、列車がニューヨークに到着するまでだ!」 「上院議員って、まさかベリアム上院議員じゃないですよね?まさかそれって、この列車のことですか?あの、どういう事なんですか!説明して下さい!」 若い車掌は嫌《いや》な予感が的中した事を悟《さと》り、先輩である男からゆっくりと後ずさった。 「説明?説明なら今しているじゃないか。正直、車掌という隠れみのがこんなところで役に立つとは思わなかったがな。とにかくこの列車はニューヨークに着き次第、我々『レムレース』の移動|要塞《ようさい》と化す!その後は、人質を盾《たて》に大陸横断路線のどこかでおさらばというわけだ。警察も全《すべ》ての線路を同時に見張る事はできまい」 「そ、その指導者は?」 やけに冷静な事を聞きながら、若い車掌は更に一歩後ずさる。だが所詮《しよせん》は狭い車内。その時点で壁に背がぶつかってしまった。 「我らの偉大なヒューイ師は、明日、ニューヨークの司法局で取り調べを受ける。だからこそ、この列車が師の為の贄《にえ》として選ばれたのだ!」 その話を聞いて、若い車掌はやけに冷静なままで先輩に問いただした。 『レムレース』というのは聞いた事がある。確か、つい先日指導者が逮捕されたテロリスト集団の名前が『|幽霊《レムレース》』という名前だった。 「……なんで、そんな話を私に?」 若い車掌は、先輩である車掌に問いただした。 軽い怪談話を始めたつもりが、若い車掌は怪談よりも現実味のある恐怖に出遭《であ》うハメになってしまった。 若い車掌《しやしよう》に向けて、グースの部下である中年の車掌が話を続ける。 「ヒューイ師は慈悲《じひ》深い。私もそれに倣《なら》ったまでだ。自分が死ぬ理由を知りながら死ねるとは、君は幸せ者だ」 そして懐《ふところ》から銃《じゆう》を取り出し、話のシメを行った。 「さて、肝心の助かる方法だが……『この話を聞いた奴は、皆すぐに死んでしまいました。助かる方法は、一つもありませんでした』とさ!」 若い車掌の鼻先に向かって、話が終わると同時に引き金を引いた。 しかし弾《'》丸《'》は《'》放《'》た《'》れ《'》な《'》か《'》っ《'》た《'》。 「なっ……」 中年の車掌は、手に痒《しび》れるような痛みを感じていた。引き金を引いた筈《はず》の指が空しく虚空《こくう》を引き絞《しぼ》る。銃は空中に跳《は》ね上げられ、そのまま若い車掌の手元に納まったではないか。 中年の車掌が引き金を引く瞬間、若い車掌が足の動きだけで銃を蹴り上げたのだ。上半身には何の動きも見られなかった為、中年の車掌はその攻撃を全く予測する事ができなかったのだ。 拳銃を手にした若い車掌が、その銃口を先輩の車掌——テロリストの額に突きつける。 「助かる方法はあるさ殺《や》られる前に殺る事だ」 そこに存在したのは、先刻までとはまるで別人のような雰囲気を纏《まと》った一人の男。 中年の車掌は身震いした。銃口が恐ろしかったのではない。それを突きつける若者の目を見てしまったからだ。無邪気《むじやき》に怪談話をしていた若者の目ではない。全《すべ》てを呑《の》み込む、いや、全てを破壊しつくすつような瞳。暗く深く、そしてギラギラと輝いている。 それは憎悪と憐《あわ》れみと蔑《さげす》みを混ぜ合わせて、全てを自分自身に向けたような色をしている。激しく輝く黒い炎《ほのお》、その光は全て眼球の内側に向けられているような……そんな目をしていた。 一体今までどんな生き方をすればこんな目になるというのだ。 中年の車掌はそう考えて震える一方で、それが自分達の仲間の狂信者——シャーネの瞳と良く似ているという事に気が付いた。 だが、そんな事は正直どうでもいい。何にせよこのままでは殺される。それだけが確実に理解できる現実だった。 「ま、待て、待ってくれ|ク《’》レ《’》ア《’》君」 「断る」 そう言って若い車掌——クレア・スタンフィールドは、銃の引き金に力を込め始めた。 ゆっくりと、死を与えるまでの時間を楽しむかのように。 その間に逃げるなり反撃するなりの時間はあった。しかしクレアの目がそれを許さない。そんな事をしようものなら、死よりも辛《つら》い結果を招いてしまう気がした。 その指の動きが、一瞬だけ止まった。 「そうそう、俺《おれ》の話の続きだけどな。『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』が来ないようにする方法は『今の話を信じる事』、来ちまった場合には『朝日が昇るまで逃げ切る事』だ。まあ、もう遅いけどな」 もはや先刻までの無邪気《むじやき》な言葉遣いではなくなっている、乱暴でいて果てしなく冷たい、氷の刃《やいば》のような口調で淡々と告げる。 「お前らにとっての『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』は確実に現れる。この銃声《じゆうせい》で目を覚《き》ます。お前の死によって眼を覚ます」 再び引き金に力が籠《こも》る。そこでようやく中年車掌は悲鳴をあげようとして口を開く。抵抗しようと手を振り上げる。 しかし、全《すべ》てが遅すざた。 「死ねよ、生賛《いけにえ》」 銃声 その銃声は線路のレールを伝い、鋭く響き渡った どこまでも どこまでも遠くへ 狭い車掌室の壁に、真紅《しんく》の血飛沫《ちしぶき》が飛び散る。 そしてそれは、車掌室のドアが開くのとほぼ同時の出来事だった。 「なんだこりゃ」 背後から上がった声にクレアが振り向くと、そこには目を丸くした車掌が立っていた。 白を基調とした『フライング・プッシーフット』専用の車掌服だ。 「誰だ、お前」 クレアが無表情で男に尋ねる。——列車に乗っている車掌は、自分と今殺した奴《やつ》の二人しか居ないはずだ。ああ、そういやこの中年車掌の名前はなんだったっけか。 そんな事を考えていると、白服の男が両手をひらびらさせて言った。 「まあまあ、その物騒《ぶつそう》なものをしまってくださいよ。私は貴方《あなた》の敵じゃあありませんよ」 ニコニコしながら言う男に対し、クレアは静かに銃を向ける。 「この状況で全然|慌《あわ》てない奴を信用できるか。お前は誰で何が目的だ。答えろ」 もっともな意見を言うと、銃の引き金にカを込めていく。 「ありゃ?もうバレちまったか」 途端《とたん》に口調を変え、偽《にせ》の車掌《しやしよう》はニヤリと口を歪《ゆが》める。それを見たクレアは、何を思ったか銃《じゆう》を床に投げ捨てた。 偽の車掌は、それを不思議そうな目で見ている。まだクレアと目を合わせていないためか、その表情には絶対的な余裕《よゆう》が窺《うかが》える。 「何のつもりだぁ?」 対するクレアは、余裕というよりも日常会話の一部であるかのように答えた。 「お前は銃を向けたぐらいじゃ真実を喋《しやべ》らないタイプと見た。だから少し拷問《ごうもん》させてもらう」 その言葉を聞いて、偽車掌は思わず吹き出してしまった。 「なんだよそりゃ!拷問ときたよ!何時《いつ》の時代の人間だ手前《てめえ》は、ええ?」 ケラケラと笑う偽車掌を他所《よそ》に、クレアは外に通じるドアのロックを解除した。そのまま扉を開くと、外からの冷たい風が強烈に身体《からだ》に染《し》み込んできた。 「おいおい、何やってんだよ?手前が銃を捨ててくれたのはありがたいんだけどよ」 偽車掌はニヤつきながら声を上げ、自分の懐《ふところ》に手を入れる。 「そっちは丸腰でもよ、こっちは銃を——あれ?」 気がつくと、クレアの姿が消えていた。 開いたドアの外に歩き出し、そのまま列車から落ちたように見えたのは気のせいだろうか。 偽車掌は銃を取り出し、ゆっくりとドアに近づいた。 軽く身体を乗り出して銃を左右に向けるが、前方には列車の側面、後方には遠ざかる闇《やみ》の景色が広がるのみだった。 やはりまだ部屋の中にいるのだろうか?慌《あわ》てて後ろを振り返ったその瞬間、足の裾《すそ》が物|凄《すご》い力で後ろに引き寄せられた。 「——ッ!」 思わず前のめりに倒れてしまうが、その力は休まることが無かった。偽車掌の身体がズルリズルリと引き摺《ず》られていく。 「わ、わわあわあああああ」 倒れながらもなんとか首を後ろに向けると、彼は信じられない物を見た。 開いたドアの下辺から、車掌制服の腕が生《は》え、その先が自分の足を掴《つか》んでいるではないか。 ——しゃ、車掌?んな馬鹿《ばか》な、下にいるだと!どうやって! そう思っている間に、彼の身体は一気に外に引き摺りだされた。冷たい風が身体を一気に通り過ぎ、体が僅《わず》かな高さを落下するのが解《わか》った。 落ちると思った瞬間、その体がガクンと空中に静止する。 気が付くと、偽車掌の体はクレアに羽交《はが》い絞《じ》めにされていた。 「??????ッ!」 混乱する偽草掌《にせしやしよう》。一体何がどういう状態になっているのか、彼にはまるで想像がつかない。 クレアはその両足を車輌《しやりよう》下の金具に絡《から》ませ、自由になった上半身で偽車掌の身体《からだ》を抱《かか》え込んでいたのだ。 常識外れな姿勢のまま、クレアは偽車裳の身体を徐々に地面へと近づけて行く。 走行音と風音がミックスされた轟音《ごうおん》の中、クレアが偽車掌の耳元で呟《つぶや》いた。 「で、改めて聞くんだが……お前は何だ?」 偽車掌はなんとか答えられる精神状態にはなっていたが、それゆえに簡単にその答えを言う事を拒《こば》んだ。右手に握った銃《じゆう》をなんとか後ろに向けようともがき始める。 「残念だ」 偽車掌の体が大きく傾けられ、その右腕が地面に接触してしまった。 「がああああああッ!」 想像したものより遙《はる》かに大きい衝撃《しようげき》と痛み。手を上に上げようとするが、腕を掴《つか》むクレアの腕力がそれを許さない。 右手に握った銃など、あっという間《ま》に弾き飛ばされた。偽車掌の手首ごと。 「お前は、何だ?」 再び尋ねるが、偽車掌は痛みに悲鳴をあげるのみだ。 クレアは身体を下げ、偽車掌の片腕を更に地面に押し付けた。 偽車掌の右腕が肩のあたりまで無くなった頃、クレアは偽車掌についての情報を全《すべ》て引き出していた。 偽車掌の名はデューンといい、ルッソ・ファミリーの構成員だという事。より正確にはラッド・ルッソ直属の部下であり、ルッソ・ファミリーからは今日|離反《りはん》した一派だという話だった。 そしてラッド達はこの列車を乗っ取り、乗客を半分殺し、あまつさえこの列車を駅に突っ込ませようとしているというではないか。 クレアは思わずラッド達の正気を疑ったが、どうやらそのラッドという男は、正気の状態が常人の狂気に等しいらしい。 まずは殺した乗客を線路に投げ捨て、列車に乗っていない『回収係』が鉄道会社にその旨を連絡、列車が|N Y《ニユーヨーク》に到着するまでの数時間の間に、搾《しぼ》れるだけ金を搾り取る。 あとは所定の位置で列車を止め、車でやってくる『回収係』と合流、脱出する手筈《てはず》だという事。その際、恐らくラッドは顔を見られた乗客を全員殺すだろうという事。 そしてデューンは列車の車掌室を乗っ取る為に、わざわざ偽車掌の服を着たのだと言う。 「何故そんな意味の無い行為をする?列車の掌握《しようあく》だけなら、俺達を撃ち殺せば済む事だろう。制服を着てなりきる必要などない筈《はず》だ」 クレアの疑問に、デューンは笑みを浮かべながら答える。極度の痛みを味わい続け、神経の 接続が狂ってしまったかのように。 だが、真に嫌悪すべきはその言葉の中にあった。 「へ、ヘへ、へ。気分だよ、気分!ラッドの奴《やつ》はそういう遊びが好きでよお。車掌《しやしよう》の格好した方が気分が出るし、後で俺《おれ》が車内を回った時によ、乗客の連中が俺に対して希望の目を向けるんだ。その瞬間をぶっ殺すのが好きなんだとよ。俺もそういうのは嫌いじゃねえしな。ヒヒ、ヒ、ヒヒヒヒヒ……」 男の解答に対して暫《しばら》く沈黙を統けた後、クレアは静かに口を開いた。双眸《そうぼう》からは先刻までの凶暴《きようぼう》な色は薄れ、元の色に戻りつつあった。だが、その目は何か小さな不安を抱《かか》えているようにも見え、クレアは表情を曇らせながら質問を続けた。 「その気分とやらの為に、その服をどうやって入手した?これは『フライング・プッシーフット』専用だ。一部の人間しか持っていない筈《はず》だが」 「ヒ、ヒヒ。今朝、駅で調達したんだよ!シカゴに着いて、あんたと入れ替わりにこの列車を降りた車掌からな!短髪で色の白い奴だよ!」 トニーだ。クレアの脳裏に、昼に引|継《つ》ぎを受けた車掌仲間の顔が思い浮かぶ。イタリア系の陽気な車掌で、クレアに車掌としてのイロハを教えてくれた人物だった。 「そいつを……どうしたんだ?」 「ヒヒ、今ごろはシカゴの下水道で鼠《ねずみ》に食われてるだろうよ!」 勢いで言ってしまってから、デューンはそれが言ってはならぬ事だったと気がついた。 痛みで脳が働かず、自分が絶体絶命の状態に在る事を忘れてしまっていたのだ。 「ちょちょ、ちょっと待て、今のは嘘《うそ》だ!」 時、既に遅し。クレアの右手がデュ——ンの後頭部に添えられる。クレアの瞳は先刻以上の凶《’》気《’》に満ち、彼が纏《まと》っていた車掌としての気配は完全に消え去ってしまっていた。 物|凄《ずご》い力で首が固定され、デューンの体はクレアの上半身ごと地面に近づいて行く。 「まま、待てよ!お前だって今車掌を殺してたじゃねえか!お前は一体何なんだよッ!」 その抗議にもカを緩《ゆる》めず、ただゆっくりとクレアは身体《からだ》を地面に近づける。敷かれた砂利《じやり》が残像によってまるで川のように流れているように見える。この列車の速度で擦《こす》り付けられれば、砂利も立派な卸《おろ》し金《がね》と化す。それは既にデューンの右腕で証明済みであった。 地面に鼻先が着くまでの間、デューンはクレアの長い呟《つぶや》きを聞いていた。 「俺か?俺はクレア・スタンフィールド。お前らマフィアには『ヴィ——ノ』って言った方が解《わか》りやすいか」 ——ヴィーノ!聞いたことがあるぞ、聞いた事があるぞ!確かアメリカの色んな所で仕事をしてる殺し屋だ、殺し方が汚い奴でこいつの仕事の後はいつもすげえ量の血溜まりが出来てるから葡萄酒《ヴイーノ》なんて通り名がついたんだ。まさかその正体が車掌だったとはな、道理で色んな場所で仕事をしてる筈だぜ……だが正直そんな事はどうでもいい助けてくれ離してくれ—— ヤバい、ヤバいヤバいヤバいヤバい 「だが、今は違う」 ——違っても何でもいいから助けてくれ頼むからたすブギャウガルフリャユレウユエリュリユリユリユリユrrrrr 顔面が地面に到達し、デューンは視界と意識と生命をほぼ同時に失った。 死体を室内に引き上げ、車掌《しやしよう》室の真ん中に放り捨てる。飛び跳《は》ねる返り血を浴びて、クレアの服は真《ま》っ赤《か》に染め上げられていた。 死体の首は通常ではありえない方向を向き、顔面と右腕は全《すべ》て削《けず》り取られている。その断面は非常に汚《きたな》らしく惨《むご》たらしい。何も知らぬ者がこの死体を見れば、何かに顔と腕を噛《か》み千切《ちぎ》られたと思う事であろう。人間の範嘩《はんちゆう》を大きく越えた、凶暴《きようほう》で残酷《ざんこく》な怪物に。 クレアは顔の半分に流れる血を拭《ぬぐ》おうともせず、代わりに指で目の下に隈取《くまどり》を作った。 それはある意味、これから行う事に対する儀式的な意図があったのかもしれない。 デューンが聞く事のできなかった台詞《せりふ》の続きを、クレアは独り言として静かに呟《つぶや》いた。 「——俺《おれ》は、お前らにとっての怪物だ。お前らを全《すべ》て食らい尽くす怪物だ」 虚空《こくう》を見上げ、ニヤリと笑う。 「今から俺はこの列車にとっての、お前らにとっての——『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』だ」 食堂車の中に、和《なご》やかな喧騒《けんそう》が響き渡る。 自分の外見と同い年くらいの少女を追い、チェスはテーブルの間を駆《か》けて行く。 列軍の一等客室で相部屋になった少女だ。少女は無邪《むじやぎ》気にも『一緒に列車を探検しよう!』とチェスに話を持ちかけた。チェスとしてはそんな物に興味はなかったが、自分が『世間に好かれる少年』を演じるには彼女に付き合っておくのが得策だろう。 彼は200年以上もそうした事を考え続け、こういう場面では自然に『子供』としての自分を演出する事が出来た。 名前を知らない少女を追いかけ、食堂車の中まで走って行く。 ーそう言えば、欧州《おうしゆう》からこの大陸に渡って来る時にもこんな事をした記憶がある。私一人が子供だった。「船の中を探検しよう!』と言った時、付き合ってくれたのは果たして誰だったかな。どうしても思い出せない。まあ、どうでもいい話だ。いずれ私が皆を『喰え』ば、その中に答えが転がっているのであろうから。 チェスは無駄《むだ》な事を考えすぎていた。注意力が散漫《さんまん》になり、カウンター席に座っている男の背中に肩を強くぶつけてしまった。 「むぐぐがが」 男は何かを口に頬張《ほおば》っていたようで、食物を喉《のど》に詰まらせて慌《あわ》てふためいている。 見ると、乗車前にぶつかった刺青《いれずみ》の男だ。よりによって同じ人間にぶつかるとはツいていない。チェスは特に悪いとも思わなかったが、即座に謝《あやま》っておく事にした。 「ああッーお兄ちゃん、また……ごめんなさい!」 男は涙を滲《にじ》ませながらも、チェスに対して無理矢理笑顔を作って見せた。 「あ、いや、大丈夫大丈夫、僕は全然平気だよ。君達の方こそ大丈夫?」 チェスはこくりと頷《うなず》いて、やはり先ほどと同じように微笑《ほほえ》んだ。顔の刺青の割に、何てお人よしな奴《やつ》なのだろう。こういう見かけ倒しの奴は、一生何も得られずに終わるのだろうな。頭の中ではそう考えていたが、表情には微塵《みじん》も表さない。 その後少女の母親もやって来て、彼らの間で世間話に花が咲き始めた。 すると眼帯《がんたい》の上に眼鏡《めがね》をかけた女が、チェスを見ながらこう言った。 「その男の子は、一人なんですか?」 「ええ、この子はあらやだ、私ったら、まだ名前も聞いておりませんでしたわ」 ——そういえばそうだったな。 チェスは皆に偽名《ぎめい》を名乗る事にした。乗車券の予約には本名を使わざるを得なかったが、普通の人間に名乗るのならば偽名で問題は無い。真の名を他人に知られるのは極力避けておいた方がいいだろう。 そう判断したチェスは、卜ーマスという偽名を名乗る事にした。今年死んだ『発明王』の名だ。これならば|N Y《ニユーヨーク》までの間、自分で忘れてしまうという事もないだろうと考えたのだ。 ところが。 「ボクの名前はチェスワフ・メイエル——」 その言い難《にく》い名を口にし、チェスは一瞬|間《ま》を空《あ》けた。その短い時間の間に、チェスの脳は非常に目まぐるしい動きを見せる。 ——どういう事だ!私は今確かに、『卜ーマス』と発音するつもりで口を動かした!今のはまるで、身体《からだ》に拒否されたような……。 彼はこれと同じ状況に覚えがあった。まだ『奴《やつ》』が生きていた頃だ。町の市場で名前を聞かれ、咄嵯《とつさ》に偽名を使おうとしたところ、自分の口が勝手に本名を口走ってしまっていたのだ。その時は、少し離れた所に『奴』が居た事が原因だと解《わか》ったのだが。 悪魔に与えられた制約。不死《ふし》に対するあまりにも軽い代償《だいしよう》。 『不死者同士では、偽名を名乗る事ができない』。 その制約は今、彼にとって実に重要な事実を伝えていた。 ——このすぐ傍《かたわ》らに、『不死者』が居る—— チェスは言葉を詰まらせたが、ここで下手《へた》に慌《あわ》てても仕方が無い。仮にその『不死者』が自分の存在に気がついていないとしたら、下手に目立って気付かせる事はない。 彼は落ち着きを取り戻し、適当に後を続けた。偽名以外はどんな嘘《うそ》もつけるので、適当な旅の目的をでっち上げる。 「チェスって呼んで下さい。ニューヨークまで、家族に会いに行くところです」 それに統き、貴婦人と女の子も挨拶をする。 だが、チェスは名前だけ頭に入れながら、その意識は食堂車の中の人々に集中していた。 声の届く範囲から考えると、恐らくはこの食堂車の中に居るだろう。だが、この中に見覚えのある顔は居ない。特に変装しているような格好の人間も見当たらないし、目の前のガンマンや眼帯《がんだい》女は変装というよりただの仮装だ。 ——一体誰がこの中に?もしかしたら、ここから見えない厨房《ちゆうぼう》の中に居るのだろうか。それとも—— その考えは、できる事なら否定したかった。 ——あの船に乗っていた者以外に、別の不死者が—— それは、彼にとってとても恐ろしい考えだった。不死者があの船の面子《メンツ》以外に居るという事は、如何《いか》なる不死者があと何人いるのかを把握できなくなるという事だからだ。 ある日見知らぬ男が笑いながらやって来て、自分の頭に突然右手を載《の》せる。 たったそれだけの事で、チェスの人生は吸い尽くされてしまうのだ。 チェスにとってそれだけは許されない。死ぬのはこの際構わない。もう自分は十分に生きたとも思っている。問題は、『奴《やつ》』と自分の間に存在した『歪《ひず》み』を第三者に知られてしまう事。それは何よりも耐えがたい屈辱《くつじよく》であり、恐怖そのものであった。 だからこそ、チェスは今の生き方を選んだのだ。他人を自分の餌《えさ》とみなし、その全《すべ》てを食らい尽くしてでも……最後にこの世に存在する『不死《ふし》者』は自分自身でなくてはならないと。 相手が自分の見知らぬ『不死者』だった場合、そいつが不死者になった理由や、他《ほか》にどのぐらいの不死者がいるのかを把握しなければならない。その一番簡単な方法は、その相手を探し出して『喰う』事だ。 その為には相手を特定する事が絶対条件だ。一人ずつこっそりと傷をつけるか、あるいは一人ずつダイレクトに右手を載せていってみるか。だが、そんな事をしていては相手にも簡単に悟《さと》られてしまうだろう。 ——何としても、不死者をここで始末しておかねばならない。例え、どんな手を使ってでも。 チェスは心の内でそんな黒い事を考えながらも、顔では無邪気《むじやき》な子供を演じ続けていた。 その時、目の前のガンマンが自分に向かって大きく声を上げた。 「そうそう、悪い事をしたんだったら、もう『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』に食べられちゃってるぞ!」 「ぱっくりとね!」 ガンマン装束《しようぞく》に真《ま》っ赤《か》なドレス。異常な格好をした男女の乗客だ。確か、アイザックとミリアとかいう名前だったと記憶している。 チェスはアイザックの声で現実に引き戻され、心を落ち着ける為にとりあえず彼の話に耳を傾ける事にした。 「——って、昔よく親父《おやじ》に脅《おど》されたもんだ!」 「どっきりだね!」 「え?れ、『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』って、な、なあに?」 刺青《いれずみ》の男が恐る恐る尋ねる。見ると、彼の両足は静かに震え始めている。 「なんだ、ジャグジーは知らないのか?『線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』ってのは……」 「……というわけで、この話を列車の中ですると……その列車にも来るんだよ————————————『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』がッ!」 「キヤッ——————!」 ——『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』か。下らない話だ。もっとも、私の体や『悪魔』の話とて同じ事か。そう考えると、もしかしたらその怪物も実在するのかもしれないな。 チェスは相変わらず周囲に注意を払いながら、アイザックの話にも耳を傾けていた。 悪い事をしたら食べられるか。もしもそいつが実在するのなら、恐らく私は真っ先に食われるのだろうな。世間の基準で言ったら、私は間違いなく『悪』と呼ばれる部類に入るだろう。現に今とて、マフィアに対して大量の爆薬を売ろうとしているのだからな。 これを抗争《こうそう》で使えば、まず間違いなく一般人にも被害が出るだろう。 被害、というのも抽象的な言い方だ。件《くだん》の爆薬を街中で使用したならば、まず間違い無く死人がでる。確実に、そして大量に。チェスはそれを十分理解した上で取引に応じているのだ。 それだけではない。チェスはこれまでにも子供のままである自分の容姿を利用して、様々な人間を騙《だま》し、陥《おとしい》れて来た。時には楽をして生きる為に。時にはただ単に人間への嫌悪に身を任せて。 ——それがどうした。知ったことか。 チェスにとってはそんな他人の生死や自分の善悪よりも、如何《いか》に他《ほか》の『不死《ふし》者』を喰うかという事の方が遙《はる》かに重要な話題であった。 その為ならば、自分以外の世界中の人間が滅んでもいいと考えていた。 あの忌々《いまいま》しい『知識』が他者に吸収されるぐらいならば、永遠の孤独を味わった方がよほど増しだというものだ。 そう思うチェスの口元に、ほんの僅《わず》かの苦笑が浮かんだ。          ⇔ 無賃乗車中のレイチェルは、驚くほど堂々と車内に潜伏《せんぷく》していた。 食堂車のテーブル席に座り、何の躊躇《ためら》いも無く料理を注文する。 彼女は金を持っていないわけではないし、列車の料理人に恨《うら》みがあるわけでもない。よって、料理に金を払う事に関しては何の問題も存在しなかった。それにこの列車は食堂の経営が鉄道から独立しているので、ますますもって問題は無い。 だが、彼女は全くの無防備にこの食堂車に入って来たわけでは無かった。車掌《しやしよう》が最初の点検を終えた瞬間を見計らってから席についたので、暫《しばら》くは乗車券の点検を受ける心配が無い。 尚《なお》且《か》つ、この食堂車は一等|車輌《しやりよう》から三等車輌まで共通のものとなっている。人々の服装にも様々なバリエーションがあり、作業着に近い服装でもそれほど突出した違和感は与えない。 さらに言うなれば、席に着く時は窓側という規則を厳守した。規則と言っても、自分が自分に課しているだけのものなので何の罰則規定も無い。だが、それが原因で掴《つか》まると説教程度では済まされないことになる。 ——それにしても、何と忌々《いまいま》しい男が乗っているのだろう。 彼女の視線の先にいるのは、一番|豪華《ごうか》な料理を食っているちょび髭《ひげ》の男。恰幅《かつぷく》がいいという よりも、ただ単に太っているだけの醜《みにく》い男だ。先刻から下品な笑い声で唾《つば》を飛ばしながら、自分自身の自慢ばかりしている。 「ファハハ、わしがこうして他社の運営する高級列車に堂々と乗れるのも、ひとえにわしの持つ余裕《よゆう》のなせる技なのだよ君ぃー」 別にそれが気に障《さわ》ったわけではない。彼女はその男に見覚えがあったのだ。 忘れよう筈《はず》もない。あの男は、父の働いていた鉄道会社の幹部だ。そして同時に、父を陥《おとしい》れて自分だけはのうのうと会社に残った男だ。あの素振りを見るに、未だに重役の座からは滑《すべ》り落ちていないようだ。その姿がレイチェルの心に淀《よど》んだ影をもたらせる。 殴《なぐ》ってやろうかとも思ったが、そんな事になんの意味も無いことも解《わか》っている。それに、無賃乗車中という状況で、下手《へた》に騒ぎを起こすわけにもいかなった。 拳《こぶし》を握り締める彼女の耳に、下品な声は無情にも響き渡り続ける。 「ま、こうしてわしが余裕を持った生活が出来るのも、会社と人々に対して誠実な仕事を行って来たのが報われているという事だがね!ヴァハハハハ」 ——何が『ヴァハハ』だ。呪《のわ》われろ。呪われて朽《く》ちて海に落ちてそのままフナムシにでもたかられて骨まで食い尽くされてしまえ。藻屑《もくず》にする事すら腹立たしい。影も形も無くなってしまえ。 レイチェルは怒りを抑えながら呪いの言葉を念じ、それ以降はヒゲ豚《ぶだ》の方を見ない事にした。 カウンターから運ばれる料理を半ばヤケになって口にしていると、一人の青年が泣きながら彼女の傍《かたわ》らを駆《か》け抜けて行った。 その顔には剣の刺青《いれずみ》が彫られており、一見すればカリブの周辺に出没する海賊の様にも見える。だが、その表情は情けないほどクシャクシャになっており、双眸《そうぼう》からは物|凄《すご》い量の涙が零《こぼ》れ落ちていた。 その男が通り過ぎる瞬間、小さな声で 「車掌《しやしよう》さん、車掌さんを早く………」 と呟《つぶや》いているのが聞こえてきた。 ——まさか、車掌を連れて来るわけじゃないよね? レイチェルは少し不安になったが、そのまま食事を続けて様子を見ることにした。 やがて刺青の青年が出て行ったドアが開き、白服を纏《まと》った男が現れる。ネクタイから靴先に至るまで白に統一されており、まるで結婚式に出るおのぼりさんといった感じの男だった。 刺青の青年とは対照的に、その男は実に威風《いふう》堂々とテーブルの間を闊歩《かつぽ》する。 レイチェルは、一瞬だけその男と目があった。 直《す》ぐに目を逸《そ》らしたが、レイチェルは何か嫌《いや》な胸騒ぎがした。乗車前に見た楽団の二人とは違うタイプの「危険信号』を出している。そんな気がしてならなかったのだ。 その男に最大限の警戒心を向げ、尚《なお》且《か》つ周囲の状況にも注意は払い続ける。 嫌《いや》な予感がする。実に嫌な予感だ。無賃乗車の常連としての勘《かん》ではない。情報屋のパシリとして様々な裏の社会と関わってきた経験、それが自分に『何か』を伝えようとしている。 いざという時の事を考え、レイチェルは窓を静かに開き始めていた。 そして、『時』は直《す》ぐに訪れた。 食堂車の中に三つの叫びが上がる。 それぞれ良く通った声をしており、車輌《しやりよう》内の人間|全《すべ》てがそれぞれの言葉を聞き届けた。 前部のドアから入ってきた、黒い楽団|装束《しようぞく》の男達が叫ぶ。 「貴様ら全員、床に伏せろ!」 彼らの手には、物々しい機関銃《きかんじゆう》が握られていた。 食堂車の中央にいた、白服の男が叫ぶ。 「手前《てめえ》ら、全員両手ぇ上げろ!」 その右手には、黄銅色《おうどうしよく》に輝く拳銃《けんじゆう》が握られていた。 後部座席のドアから入って来た、ポロ服の男が叫ぶ。 「やいやいやい!お前ら全員動くなぁッ!」 男は、果物《くだもの》ナイフを一本だけ握っていた。 レイチェルの隣にいた男が、冷や汗を流しながら呟《つぶや》いた。 「ど……どうしろと………?」 それぞれの男達は互いに顔を見合わせ、誰もが『何これ?』という表情を浮かべている。 最初に動いたのは、ボロ服を纏《まと》ったナイフの男だった。 「えーと」 小声で呟《つぶや》きながら、一歩二歩後ろに下がる。 「お騒がせしました」 ドアを静かに閉め、そのままパタパタと走り去ってしまった。 ナイフ一本では均衡《きんこう》にすらなっていなかったが、結果的に三すくみの時間は崩れ去る。 そして、それが惨劇《さんげき》の合図となった。 白服の男は即座に銃《じゆう》を抜き、続けざまに三発撃ち放つ。乗客達は皆|身体《からだ》を疎《すく》め、頭を抱《かか》えながら悲鳴をあげ始めた。 白服が放った弾丸の内、一発は黒服の一人に直撃した。肩を打ち抜かれた黒服が、回転するように床に倒れこむ。 それに呼応するかのように、黒服達のマシンガンから鉛の雨が噴射された。 黒服達の狙《おち》いは正確で、白服の胸があっという間《ま》に赤く染まる。 乗客達の悲鳴が続く間、レイチェルは窓を開きながらゆっくりと|立ち上がった。白服の男は後ろに倒れながら、天井《てんじよう》に向けて数発|銃《じゆう》を放つ。狙いなど関係なく、ただ衝撃《しようげき》で指と腕が動いてしまっただけの事だ。 その瞬間、再びマシンガンの轟音《ごうおん》が響く。 今度は腹に強い衝撃が走り、白服の体《からだ》は勢いよく|く《’》の《’》字《’》に折れ曲がった。 やがて男の目から生気が失われ、ドサリと床に倒れ臥《ふ》す。その時には既に、レイチェルは身体を列車の外へと滑《すべ》り出させていた。側壁の装飾を器用に掴《つか》みながら体を下ろし、車輪と車輪の間に器用に潜《もぐ》り込んで行く。 乗客達や黒服の意識は完全に銃撃《じゆうげき》戦に向けられている。レイチェルが消える瞬間を目撃したのは、隣に座っていた男ただ一人であった。          ⇔ その後、やけにハイテンションな白服の仲間が現れて、あっと言う間に状況をひっくり返してしまった。 乗客達が状況を掴《つか》めずに混乱している中、一人だけ冷静に状況を掴んでいる者がいる。 ——今の連中……使えるかもな。 チェスはカウンターの前に伏せながら、今の白服の男を利用する事を考えていた。 「それじゃあチェス君、メリーをお願いしますね」 「うん!」 チェスはベリアム夫人の声に大きく頷《うなず》くと、少女の手を取って食堂車の外へ向かう。ドアを開き、慎重《しんちよう》に周囲を窺《うかが》いながら先へ進む。とりあえず、白服達の姿は通路に見当たらない。 メリーの手を引きながら、静かな通路を後部|車輌《しやりよう》に向かって進む。この状況はチェスにとって実に都合がよかった。 襲撃のあと、ベリアム夫人がチェスに対して『チェス君。メリーと一緒に、どこかに隠れていて欲しいの』と言ってきた。彼としてはこの食堂車から出て白服達のもとに向かいたかったのだが、この状況で一人で外に出ると言っても周囲に止められてしまうのがオチだろう。 そんな中で、娘を心配したベリアムが外に出る大儀名分《たいぎめいぶん》を与えてくれたのだ。これを利用しない手はない。 ただ、当然ながらこの先で邪魔《じやま》になるのはメリーの存在だ。このまま白服の所に行って彼女を差し出したり、あるいはこの場で殺してしまうという手もある。 だが、チェスにはどうしてもそれを実行する気にはなれなかった。彼女を憐《あわ》れんでいるわけではない。自分の外見と同い年ぐらいの少女。彼女を騙《だま》し、裏切るという行為。それはまさしく、『奴《やつ》』が自分に対して行った事ではないか。 子供を殺したりする事に罪悪感は無い。必要とあらばチェスは子供の生き胆《ぎも》を自らの研究に使う事にも躊躇《ためら》いは覚えない。ただ、『裏切る』という行為だけは話が別だ。自分がもっとも憎んでいる『奴』と同等の事をするのかと思うと、チェスの心に自分自身への激しい憎悪が燃え上がる。 大人を騙すのは別になんとも思わない。かと言って、子供を神聖視しているわけでもない。子供の持つ残酷さや醜さも、この200年の間に嫌というほど見てきたつもりだ。それでもやはり子供を陥《おとしい》れる事ができないのは、在りし日の自分の姿が相手に重なってしまうからだろう。 チェスの手を握ってついて来る少女。彼女の目は怯《おひ》えの色にこそ満ちているものの、チェスに対する疑いなど微塵も浮かんではいなかった。寧《むし》ろ疑いの目を持ってくれていたならば、チェスは彼女をここで始末してしまう事も出来たのだろうが。 ——どこまで足枷《あしかせ》になれば気が済むというのか、この忌々しい『記憶』は! チェスは内心では憤《いぎどお》りながらも、その手はメリーの掌《てのひら》をしっかりと握りしめていた。 最初の二等|車輌《しやりよう》を越えて次の車輌に差しかかった時、彼はトイレの横にある掃除用具入れに目をつけた。 慎重《しんちよう》に扉を開けると、そこにはモップやバケツ等が整然と置かれている。モップを端《はし》に寄せれば、子供一人ぐらいなら隠れる事ができそうだ。 「さあメリー、この中に入って。キミ一人ならなんとか隠れられるよ」 「で、でも……チェス君は」 メリーが心配そうな目でチェスを見る。 「ボクは先の様子を見て来るから、メリーはここで隠れていて。絶対に動いちゃだめだよ。大丈夫、すぐ戻って来るから」 チェスが言うと、メリーは震えながらもコクリと頷《うなず》いた。実際、白服との交渉が終わったらすぐに戻るつもりだった。白服との交渉次第では、彼女の命を危険にさらす事になる。それは結果的に少女を裏切る事になるので、チェスとしてはなんとしても避けたい所だった。 ——くそ、何を躊躇っているのだ私は。この世の全《すべ》ての人間は餌《えさ》に過ぎない。家畜に過ぎない。そう認識していた筈《はず》ではないのか。落ち着け、これは単に情が湧《わ》いただけだ。子羊を殺し、その肉を喰らうのに罪悪を感じる事だってあるだろう。それと同じだ。 チェスの脳裏には、『白服と交渉する時点で既に裏切り行為である』という考えは微塵《みじん》も浮かばない。チェスは彼女を守るとは約束したが、その他《ほか》の人間など知った事ではないのだ。 ——そうだ、私が特別な存在である事を思い出す為に、この忌々《いまいま》しい記憶を封じ込める為に、そして何より、私が生き延びる為にこの列車は、崇高《すうこう》な生贄《いけにえ》とならなければならない。 チェスは出来る限りの笑顔を浮かべながら、少女の待つ扉を静かに閉める。 無理矢理作ったチェスの笑顔。引きつった顔の筋肉は、なかなか元の表情に戻る事を許さなかった。 子供らしい笑顔など、作り慣れていた筈《はず》なのに。          ⇔ 「おい、そろそろ見張りを交替してくれ」 貨物室の黒服の一人が、残る二人に要求する。 「こら、勝手に持ち場を離れるな」 「かまやしねえよ。あの縄《なわ》はそう簡単には切れねえさ。第一、俺《おれ》達の仕事に人質《ひとじち》の見張りは入ってねえだろうがよ」 「しょうがないだろ。人が来ちまったんだからよ」 本来、彼らは『幽霊《レムレース》』の武器を管理するのが仕事だった。三人で暇を持て余していたのだが、突然事態がややこしくなった。 誰かが通路を駆《か》け抜ける音が聞こえたので、彼らは銃《じゆう》を構えて外に出ようと準備をした。 すると、こちらが開ける前に勝手にドアが開いたではないか。 そこにいた変なチンピラを銃で脅《おど》していると、今度は白い服の男女がやって来た。仕方なくそいつらを捕らえていると、最後にもう一人チンピラがやって来た。わけが解《わか》らないままとりあえず全員を捕らえ、縄《なわ》で縛《しば》って隣の貨物室にぶち込んであるのだが—— 「命令の範囲内さ。目撃されたら取りあえず捕らえろって指示だったからな。解ったらさっさと現場に戻れ」 「だから、交替しろって」 「しようがねえな。取りあえず奴《やつ》らの様子を見せてみろ」 そう言って、黒服の一人がもう一人に連れられて通路に出て行った。 残された一人が、去り行く背中に呼びかける。 「ああ、そいつらの事は無線でグースさんに知らせとくからな」 しかし、仲間達からの返事は無い。 「おい、返事ぐらい………」 自分もドアから顔を出して呼びかけるが、彼は状況がおかしい事に気が付いた。 隣の車輌《しやりよう》の貨物室に二人で向かった筈《はず》なのに、廊下には一人しか立っていなかった。 「ん?おい、ジョージは何処《どこ》に行った?」 眼鏡《めがね》をかけた黒服は消えた仲間の居場所を尋ねるが、やはり返事は戻ってこなかった。 「おい、どうした!」 廊下の仲間は全身をカタカタと震わせている。そして、ようやく声を絞《しぼ》り出して答えた。 「き……消えた……」 「は?」 男は窓に背を向けながら、なおもガクガクと震えている。 「消えたんだよ、こう、振り返ったらもういな……」 「おい!後ろ!」 眼鏡の黒服が唐突《とうとつ》に叫ぶ。 単調に並ぶ貨物車輌通路の窓。その一つが大きく口を開いている。仲間の立っている後ろの窓だ。 その窓に、赤い人影が映ったのだ。室内の何かが反射したわけではない。そもそも窓は最大限に開かれているのだから。 その赤い『何か』は、確実に列《’》車《’》の《’》外《’》側《’》に《’》立《’》っ《’》て《’》い《’》た《’》。 そしてその赤い影が、仲間の背中に手を伸ばす。 「え……?」 窓際にいた男は振り返る暇も、悲鳴をあげる暇すらも与えられなかった。 男の身体《からだ》が、驚くほど鮮やかに宙に浮かぶ。そして、まるで栓《せん》を抜いた風呂の水のように、外の闇《やみ》に吸い込まれていってしまった。 「は?」 眼鏡の黒服は混乱する。 ——仲間の二人が外にでて三十秒も絶っていないんだぞ?その間に二人も消えるってのはどういう事だ。しかもそのうち一人は、俺《おれ》の目の前で消されたんだぞ?なんだよ、それなのになんで何も理解できねえんだよ。俺ってそんなに頭が悪かったっけか。 呆然《ぼうぜん》としてその場に佇《たたず》んでいると、再び視界の隅に赤がよぎる。 闇の中に浮かぶ激しい赤。それは恐ろしくもあり美しくもあり。 赤い影はゆっくりと壁の外側に姿を消し、窓の外には漆黒《しつこく》の闇だけが静かに流れ続けている。 眼鏡の黒服は、そこでようやく悲鳴をあげる事が出来た。          ⇔ クレアは、自分の名前が嫌いだった。 名するつもりは無いものの、やはり男である自分が女性名で呼ばれる事には抵抗がある。 祖父《そふ》の名前を受け継《つ》いでつけたそうだが、確かに19世紀の前半までは『クレア』は男性にもつけられる名称であった。だが、現在ではどこに行っても女性と間違われる名前である。 名前は嫌いだが、親を恨んではいない。どの道、既に死んだ者を恨んでも仕方がない。 生きていれば文句の一つも言ったかもしれないが、物心ついた時には既に死んでいた。 クレアはその後、隣の部屋のガンドール一家の下で育てられる事となった。 ガンドールの親父《おやじ》は吹けば飛ぶような小規模マフィアのボスだった。ニューヨークの組織の中でも、下っ端《ぱ》組織の飼っている犬ぐらいの存在でしか無い。 ガンドールの親父が死んだ頃、クレアはサーカスに引き取られていた。クレアとしては、自分の尻《しり》に頭がつく事や片手で倒立ができる事ぐらい普通の事だと思っていたのだが、どうやらそれは凄い事らしかった。サーカスの人々は先天的に筋肉だか骨格がどうこう言っていたが、当のクレアにとってはどうでもいい話だった。 ただ一つ気に食わない点があるとすれば、その後自分が如何に鍛錬《たんれん》を積んで技術を物にしたとしても、周囲がそれを全《すべ》て『才能』の一言で片付けてしまった事だ。自分の努力を無に返されたような屈辱《くつじよく》だったが、彼はやがてそれも受け入れた。——きっと、この程度の技を身に付ける程度では『努力』とは言わないのであろうと。ならば、自分の『才能』とやら以上の物を身に付けてやろうと。 結果として、彼の『努力』は未だに誰にも認められていない。クレアが人一倍の努力をしたのも事実だったが、彼の能力は常人から見れば『努力』でどうにかなるようなものには見えなかったのだ。 クレアとしては、サーカスで稼《かせ》いで家族同然の兄弟達に仕送りしてやろうと考えていたのだが、世の中そうは甘《あま》くない。かといって、別に稼げなかったわけではない。クレアがある程度金を稼げるようになっている頃には、ガンドールの三兄弟はその縄《なわ》張《ば》りを大きく広げてしまっていたのである。他《ほか》の組織から見ればまだまだ弱小だったが、彼らの収入はクレアよりも遙《はる》かに多くなってしまっていたのである。 サーカス団も解散し、彼は世界に野放しにされた。紆余《うよ》曲折《きよくせつ》を経て、結局クレアは殺し屋という職業についた。フリーの殺し屋などそうそういるものではないが、なんとか上手《うま》く続ける事が出来ている。サーカスを辞《や》め、車掌《しやしよう》という職業を隠れ蓑《みの》にしたのには理由がある。サーカスよりも頻繁《ひんぱん》に、しかも大都市間を移動できるこの職業。フリーの殺し屋としてはこれほど便利な事は無かったのだ。 自分は汚い殺し方をする。それはクレア自身も理解している事だ。彼の癖で、相手の身体《からだ》をある程度破壊しなければ安心できないのだ。もしかしたら、心臓がまだ止まってはいないのではないかと考えて。臆病《おくびよう》というわけではない。『依頼を受けて殺しを行う以上、完全に相手を殺しきる事が礼儀だ』という、彼なりの思想に基づいての行為であった。 本来は欠点である筈《はず》のその癖《くせ》が、逆に彼の名を売る事になる。現場に異常なまでの血|溜《だ》まりを作るその殺し方は、相手の組織などに非常に大きな恐怖を与える。 いつしかクレアは『葡萄酒《ヴィーノ》』等という渾名《あだな》を付けられ(元より仕事は偽名《ぎめい》で行っていたが)、何時《いつ》しかその名は各都市に浸透していった。『全米中の都市に現れる、神出鬼没《しんしゆつきぼつ》の怪物』と噂《うわさ》され、『葡萄酒《ヴィーノ》』という通り名は裏杜会の中へ深く静かに響き渡っていった。 ——大陸横断鉄道の車掌《しやしよう》なのだから、大抵の都市に出没するのは当たり前の話だ。それに自分のような細身の人間を捕まえて『怪物』とは。ならば、俺の二回りもでかいガンドールの次男などは邪神《じやしん》とでも呼ばれるのではなかろうか。 クレアは明日会う『家族』の事を思い出し、自然と心を落ち着かせる。 そこそこ名前が売れて来ても、ガンドール兄弟はクレアを組織に誘う事はしなかった。かといって彼の事を遠ざけるでもなく、殺し屋という職業を止《や》めさせようともしなかった。 人としては問題のある行為だが、クレアはそれが嬉《うれ》しかったし、ガンドールの為なら格安で仕事を請け負ったりもした。本当はただでも良かったのだが、彼らの方がそれを許さない。 そして今、その義理を果たす為に自分は彼らの下に向かう。現在ガンドール・ファミリーは、|N Y《ニユーヨーク》でも大手の部類に入る『ルノラータ・ファミリー』との抗争状態に入っているそうだ。 恐らくは暫《しばら》く車掌の仕事に戻れまい。明日のNY到着を最後に、暫く休職する旨は既に伝えてある。 後の問題は、この列車が無事に|N Y《ニユーヨーク》に着けるかどうかという事だけだった。 この列車を止めてはいけない。 自分の到着が遅れたせいで、ガンドール・ファミリーが蝕《むしば》まれていく。それだけは何としても避けなければならない。 仮に白服と黒服のどちらかが列車を乗っ取ったとすれば、この列車が無事に着く可能性は大きく減少する。仮にNYまで辿《たど》り着いたとしても、そこで恐らく警察との膠着《こうちやく》状態が起こるであろう。それに、警察とやりあう事になれば乗客の一部は確実に死ぬ事となるだろう。 あんな奴《やつ》らにこの列車は渡さない。乗客も殺させないし、人質《ひとじち》として利用もさせない。 クレアはそこまで考え、途中からガンドール云々《うんぬん》を抜きにして、純粋に乗客を心配している自分に気がついた。 ——なんだよ。 そして、彼は自身の心を省みる。 ——俺《おれ》、車掌も結構気に入ってたんだな。 月光の下、彼は照れくさそうに笑った。 貨物|車輌《しやりよう》の横に片手でしがみつき、小脇に首の折れた黒服の身体《からだ》を抱《かか》えながら。          ⇔ レイチェルは車輌の下を進んでいた。金具の隙間《すきま》を猿《さる》のように伝い、常人から見れば異常なスピードで列車の後方へ進んで行く。 彼女が目指すのは貨物室だ。この列車で何が起こっているのかは解《わか》らない。ただ、楽団の人間がマシンガンを持って食堂車に乱入して来た事は確かだ。 だとすると、貨物室の見張りについている男はどうなるのだろう。彼らが楽団を隠れ蓑《みの》にした『何か』だとしたら、恐らく貨物室にいる男も仲間だろう。レイチェルはこの列車の状況を一刻も早く掴《つか》むために行動を開始していた。大人《おとな》しくしていればいいものを、わざわざ危険に踏み込んでいく。 これは恐らく、情報屋としての職業病のようなものなのだろう。実際は単なる『パシリ』に過ぎなかったが、彼女はそうやって自らの好奇心《こうきしん》の理由を納得させた。 レイチェルは貨物室の下に辿《たど》りつくと、車輪の間から身体を伸ばして列車側面の扉を窺《うかが》った。 流石《さすが》に空《あ》いてはいないだろうが、側面の様子を少しでも確認しておきたかったのだ。 ところが、ここで予想外の出来事が起こった。 側面の扉が開いているのだ。 通常ならば、この扉は停車時の搬出《はんしゆつ》入時《にゆうじ》にしか開かない筈《はず》だ。 それが今こうして開いているという事は、やはり何か大きな事件が…… そこで、レイチェルの思考は一度停止した。彼女は気付いてしまったのだ。開いた扉の横で、真《ま》っ赤《か》な人影が蠢《うごめ》いている事に。 暗かった上に開いた扉にばかり目を向けていたので、最初はその存在に気がつかなかった。だが、扉の横にいるその『存在』に気がついて、彼女は状況を理解した。 扉は『開いていた』のではない。現在進行形で開《’》き《’》続《’》け《’》て《’》い《’》る《’》のだ。今まさに、赤い人影の手によって。 赤い人影の方はこちらに気がついていないようだ。列車の側面の突起に、驚くほど安定した姿勢でしがみついている。 やがて扉が開き終わると、何事も無かったかのように貨物室に入っていった。 レイチェルは一瞬|呆気《あつけ》に取られていたが、走行音にまじって聞こえる男の悲鳴によって、彼女の意識は現実に引き戻された。 「やめろ……来るな……やめろやめろやめろぉぉぉおぉおおお!」 異常なまでに怯《おび》えた悲鳴の後に、貨物|車輌《しやりよう》に轟音《ごうおん》が響き渡る。だが、それは直《す》ぐに終わりを告げた。何か嫌な予感がして、レイチェルは上半身を車輌の下に戻そうとした。 しかし、その行動はあと一歩のところで間に合わなかった。 レイチェルのいる位置のすぐ横に、赤い影が突然下りて来たのだ。それは下りて来たというよりもむしろ、側面の入り口から落ちてきたという感じだった。 更に困ったことが起きた。 目が合ってしまったのだ。 赤い影の、怪物と—— クレアは少しだけ困っていた。 貨物室を見張っていた黒服のうち、二人は既に始末した。 だが、二人目を外に引き摺《ず》り出すところを三人目に目撃されてしまった。案の定、三人目は通信器を使って仲間と連絡を取り始める。 この貨物室の扉の鍵は壊《こわ》れている。それを知っていた彼は、そのまま中に忍び込んで始末をつける事にした。 悲鳴をあげた時にはもう遅い。クレアが彼の腕を掴《つか》み上げると、その手に握っていたマシンガンの引き金を無駄《むだ》に引き搾《しぼ》られた。 上に向けられたマシンガン。当然ながらクレアには一発も当たら無い。少し捻《ひね》ってやると、黒服は驚くほどあっさりとマシンガンを取り落とした。 後は通常通りに外に引き摺り出し、地面に身体《からだ》を押し付けて殺すだけだ。彼は人を一人羽交《はが》い絞《じ》めにしたまま、まるで階段を下《お》りるような雰囲気でドアから外に飛び降りた。 後は、足だけをうまく金具に引っ掛けて止まる。おそらく自分以外の人間なら、足が耐えられずに折れるか落ちるか、もしくは車輪に絡《から》まって御陀仏《おだぶつ》だろう。 だが、自分なら大丈夫だ。そんな自信に満ちた表情で、実際に成功させるまでは良かったのだが—— そこで、彼は珍しく困った表情を見せた。 ——誰だ、こいつ。 自分の横、車輌下の金具の合間から女の顔が伸びている。見たことの無い女だ。黒服か白服の仲間だろうか。 少し迷っていると、突然羽交い絞めにしている男が重くなった。かと思えば、次の瞬間には軽くなる。 見ると、黒服の両足が無くなっていた。どうやら足をばたつかせている内に車輪に巻きこまれてしまったらしい。 実際にはかなりの力で引っ張られたはずだが、クレアは全く問題なく羽交い絞めを続けていた。その結果、黒服の下半身は千切《ちぎ》れてしまったらしい。男は悲鳴を上げる間《ま》すら無く意識を失ったようだ。もしかしたら、痛みによって既にショック死しているかもしれない。 どちらにせよ、失血によって死は免れないであろうが。 ——しようがないな。 とりあえず彼は足と背に力を込め、状態を思い切り上に反《そ》らす。その反動を利用して、上半身だけになった黒服を思い切り部屋に投げ入れた。 勢いが良すぎたのか、黒服の上半身は天井に一度ぶつかって、それから床に叩き付けられた。 クレアは特に気にする様子もなく、女の首の方に目線を戻す。 配管の間に見える服装を見るに、どうやら白服でも黒服でもなさそうだ。そもそも、乗客名簿をチェックした時にこんな女はいなかった筈《はず》だ。だとすると、考えられる事は一つ。 クレアは車掌《しやしよう》としての習性で、ついついお決まりの質問をしてしまった。 彼の目からは殺気が一瞬だけ消え、事件が起こる前の車掌としてゆ雰囲気を取り戻す。 もっとも、レイチェルからすればそんな差異など気付く余裕《よゆう》は無かったのだが。 ——何? なんなの? これは何! レイチェルは混乱していた。明らかに人間離れをした動きで、赤い影が黒服の足を引き千切《ちぎ》った。しかも、車輪に巻き込ませるという残酷《ざんこく》極まりない方法で。黒服の足が車輪に巻き込まれた瞬間、この車輌自体が大きく振動した。それほどの衝撃にも関わらず、この赤い怪物は微動だにすらしなかった。しかも、足の力だけで配管に絡《から》み付いているにも関わらずだ。 その死体をやはり人間離れした動きで部屋に投げ戻すと、赤い影がレイチェルの方に目を向ける。 レイチェルは身動き一つとれぬままに、その目を静かに見つめ返した。一見落ち着いているが、心の中では恐ろしくて堪らなかった。彼女にはその赤い影の瞳が、どうしても人間の物とは思えなかったのだ。僅《わず》か数秒見ただけで、思わず吐《は》き気を催してくるほどだ。まるで、物|凄《すご》く深い穴を覗《のぞ》いているようで。そして、その穴に吸い込まれて死んでしまいそうで。 その直後に怪物の目からは殺気が薄れたのだが、今の彼女にはそんな事に気が付く余裕《よゆう》などは存在しなかった。 目の前の怪物は静かに口を開き——ある意味、レイチェルが最も恐れる言葉を口にする。 「切符を拝見させてください」 「いやっぁぁぁぁぁぁぁぁあッ!」 レイチェルはカタツムリの目の如く車輌の下に引っ込むと、走るのと同じような速度で列車の下を逃げ始めた。四本の手足がそれぞれ別の生き物のように蠢《うごめ》きあい絡みあい、彼女の胴体《どうたい》を列車の前方へと運搬していく。 ——何!?車掌《しやしよう》?車掌だって言うの今の化け物が!嘘《うそ》だ!そんな馬鹿《ばか》な話があってたまるもんか!でも、それ以外ありえない?何故《なぜ》?何でアレが車掌の言葉を話すの?殺される。あんなのに無賃乗車で掴《つか》まったら、確実に殺される! マフィアのアジトに潜入して情報を得たこともある彼女が、全く未経験の『恐怖』に体を支配されている。その支配はただひたすらに彼女の手足を動かし、怪物の存在から一歩でも遠ざからんとする。 この瞬間、彼女は列車を飛び降りる事すら考えていた。 クレアの目に生気が戻り、車掌としての自分が激しい怒りを感じていた。 ——おのれ、やはり無賃乗車か。あの女めどうしてくれよう。列車から叩《たた》き落としてくれようか。それとも足腰を立たぬようにしてから『私は無賃乗車です』という看板《かんばん》を首からぶら下げさせて、そのまま駅に晒《さら》してくれようか。 一瞬彼女を追う事も考えたが、彼の殺し屋としての理性がそれを押し留《とど》める。 ——おっと。今の俺《おれ》は車掌じゃない。ただの怪物だったな。 軽く思い直して、再び顔に殺し屋の凶相《きようそう》を浮かび上げる。 彼は苦も無く貨物室に舞い戻ると、歩きながら部屋の様子を観察し始める。 すると、一つの大箱の上に何かの機械が載《の》っている事に気がついた。 どうも無線機のようなのだが、現行の物よりも一回り小さくなっているように見える。どうやら、敵は単なる無謀者《むほうもの》の集団というわけでもないらしい。 だが、クレアにとってそんなのはどうでもいい事だ。どんな敵だろうとどんな人数だろうとどんな罠《わな》が待ち構えていようと、彼にはそれを全《すべ》て破壊するだけの自信があり、そしてその実力も伴っているつもりだった。 彼は貨物室に置いてあった数本のロープを手に取った。恐らく黒服の連中の物であろうが、もしかしたら何かに使えるかもしれない。クレアは長いロープを腰に巻き、細く短いロープを自らの懐《ふところ》に仕舞い込んだ。 そしてクレアは、次の破壊対象を求めて進撃を開始する。 狂った暴力を纏《まと》う男が、列車の平和を守るために。          ⇔ ジャグジー達とのファーストコンタクトを終えたラッドとルーア。白服集団の中心である彼らは、仲間を一人引き連れたまま車掌室の中へと踏み込んで行った。 正確に言うならば、足を踏み入れたのはラッド一人だけだったのだが。 「おかしいってマジで信じられねってマジで。何でここ血の海なのよ。おかしくねえ?寧《むし》ろ凄《すご》くねえ?何をどうやったらこんな汚《きた》ねぇ殺し方できんのよ」 ルーアともう一人の白服は、車掌《しやしよう》室の入り口から中に入ってこようとはしなかった。床一面が血の海で、中には顔面と片腕の無い死体が転がっている。さらに、奥の壁には後頭部を吹き飛ばされた中年の車掌が転がっている。こちらは恐らく銃殺《じゆうさつ》されたものだろう。 「なあなあなあよお、この顔面無い奴《やつ》ってやっばあれか、デューンの奴か?すっげ——なおいミイラ取りがミイラになってるよ、ってーか誰だよデューンの奴を殺したの。仇《かたき》取ってやろうにも相手がわかんなきゃ話にならねえ。あぁあぁあぁ、デューンはなんて可哀想《かわいそう》な奴なんだろ!仲間に仇もとってもらえねえたぁな!」 ドアの外にいた白服が真っ白になった顔をそむけているのに対し、ラッドは実にストレートなハイテンションっぶりを見せている。 一体どんな化け物がデューンを殺したのか、想像しながら実に楽しそうに飛び跳《は》ねている。 足を踏み下ろす度に床の血が跳《は》ね返り、ラッドの白服がますます赤くなっていく。 ラッドは最後にヒャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハと大きく笑い、その後はぴたりと口を閉ざして車掌室を後にした。 すれ違いざま、真剣な顔でルーアに告げる。 「気を付けろ。この列車にはなんだか知らねえが『ヤバイ』のが居る。この過剰な殺しっぶりはまともな奴がやる事じゃねえ。かといって青|髭《ひげ》みてえな死体愛好の変態でも、俺《おれ》みたいな殺人鬼でもねえ。どっちかってーと|殺り過ぎ《オーバーキル》マニアの化け物だ」 一度立ち止まって、ルーアの顔を見る。 「俺はこれからそいつや黒服を殺しに行くから、お前はどっかに隠れてろ、な」 今までの笑いとは違い、どこか温かみのある笑顔を浮かべるラッド。無言で頷《うなず》くルーアに対し、再び顔を歪《ゆが》めてこう言った。 「お前は俺が殺すんだからよお」 その言葉に、ルーアは顔を赤らめて頷いた。 ——イカれてるな、相変わらず。 そのやり取りを見ていた白服の仲間が、心の中で呟《つぶや》いた。 ——その台詞《せりふ》はよー、西部劇とかでライバルが主人公を助ける時の捲約束の台詞だろが。彼女っつーか婚約者に言うなんて聞いた事がねえ。 そして彼は知っていた。彼の言葉は本気であり、いつか彼はルーアを殺すだろうという事を。 そして、ルーアもそれを望んでいるという事も。          ⇔ ——凄《すご》いなこれは。何が起きたんだ? 最初の貨物室に転がる足が無い死体を見て、チェスは思わず息を呑《の》んだ。 どう考えても、黒服の連中の仕業《しわざ》とは思えない。というか、ここで死んでいるのも黒服だ。 次にチェスは白服の連中を思い浮かべ、『食堂車に来た、あのイカれた奴《やつ》ならあるいは』と考えた。ほかには「不死《ふし》者』という考えもあったのだが、別に『不死者』は死ななくなるだけで筋力などに変化があるわけではない。小説に出てくるような吸血鬼よりも弱点は少ないが、普通に勝負したら確実に負けるだろう。それが『不死者』だ。あくまで『死なない』というだけなのだ。 ——他《ほか》にこの死体を作れるような奴と言えば—— チェスの思考の中に、先刻耳に入れたばかりの単語が浮かぶ。 ——『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』 「まさかな」 チェスは否定の念を、思わず言葉として口に出してしまっていた。もしかしたら心の奥底では不安があり、それを無理矢理打ち消そうとしたのかもしれない。 ——他に考えられるのは、私の爆薬の直撃を食らったという事だが。 そう考えて、今回自分が積み込んだ隠し荷の事を思い出す。一つ後ろの車輌《しやりよう》に積んだ、ルノラータ・ファミリーに売る為の爆薬だ。半分は特殊な箱に詰まった砂上爆薬の状態で。残り半分は陶器製の手榴弾《しゆりゆうだん》とダイナマイト状に加工してある。趣味で作った民芸品のような物だが、日本では陶器の爆弾は実際に使われているらしい。 ルノラータ・ファミリーは現在抗争中で、直《す》ぐに使える状態の爆薬を欲しがっている。それも、強力な威力で扱い易《やす》い一品をだ。 チェスが研究の副産物として生み出したその新型爆薬は、従来のものより威力が大きく、衝撃《しようげき》に対する安定性が高まった物だ。しかし所詮《しよせん》は研究の副産物。安く叩《たた》き売ろうとしていた所をルノラータ・ファミリーに買い付けられたというわけだ。 その爆薬で吹き飛ばされたのなら、足の一つや二つ、場合によっては体ごと消し飛んでもおかしくは無かった。もっともその考えは、死体に下半身以外の外傷が無い事からあっさりと否定できるのだが。 やはり、この黒服を殺《や》ったのは白服の連中だろうか? とにかく実際に会えばわかる事だ。チェスは死体への興味を無くすと、再び車掌《しやしよう》室に向かって歩き始めた。ここに来る途中でも白服と接触しかけたが、あのリーダー格のキレた男ではなかったので、とりあえず近くの部屋やトイレ等に隠れてやり過ごしていた。やはり中心人物と直接交渉しなければ話にはなるまい。 ——あの男は一箇所でじっとしているタイプではない。車掌室に向かって歩いていけば、いずれ発見する事が出来るだろう。 チェスは半ば確信を持って車掌《しやしよう》室に向かっていた。 そして彼の目論見《もくろみ》通り、二つ目の貨物|車輌《しやりよう》の中で遂《つい》にラッドと遭遇《そうぐう》を果たす事に成功したのであった。 「ん?」 取りあえず車輌の前方に戻る事にしたラッド達だったが、二つ目の貨物車輌の中で小さな人影と遭遇《そうぐう》した。 それは、食堂車で見かけた少年だった。 「なんだガキ。なんか用か?」 冷たくあしらうラッドだが、内心では早くも少年に対する殺意を抱《いだ》き始めていた。 ——なんだこのガキ。手前さっき食堂車に居ただろうが。俺が黒服をぶっ殺すところを見てんだろうがよ。手前なのになんだよその顔は。何|余裕《よゆう》かましてんだよ。自分が子供だから殺されないとでも思ってるのかよ。ふざけるな、殺すぞ。 内心で暗き炎《ほのお》をメラメラと燃やしていると、少年はニコニコと笑いながらこう言った。 「お兄ちゃん、凄く強いんだね!ボク、びっくりしちゃった!」 殺意ゲージやや滅少。 「ほー、そうか?そう思うかあ?」 「うん!お兄ちゃんがリングに上がってたら、絶対に今ごろベルトを巻いてるよね!」 殺意ゲージ滅少。 「っほー。世辞《せじ》が上手《うま》いガキは嫌いじゃねえ。で、何の用だ?」 「実はね、お兄ちゃん達にお願いがあるの」 「お願いだあ?」 殺意ゲージちょい増。 「ここじゃなんだから、こっちの部屋に入って話そうよ」 少年はそう言って、貨物室の中に入って手招きをする。 殺意ゲージ増。 「おいおいおいおいこのなれなれしさ最高潮の腐《くさ》れガキよお。俺らの事が解ってんのか?」 「そんなに恐い顔しないでよお兄ちゃん」 大小様々な箱が並ぶ中、チェスは座るのに丁度《ちようど》良い高さの箱を見つけて腰をかけた。 「五月蝿《うるせ》ぇ。今年25なるこのラッド様をオジサン呼ばわりしなかった功績で手前は今生き永らえている事を忘れるな。お前の言うお願いとやらが俺を笑わせるか怒らせるかでお前の命の値段が決まるぞ坊主《ぼうず》?」 ラッドの口もとは笑っているが、目は殺意に満ちる寸前だ。 しかし少年は微塵《みじん》も気《き》後《おく》れする事無く、ラッドの顔を見て無邪気《むじやき》に『お願い』をした。 「あのねあのね。食堂車の人達を————鏖《みなごろし》にしてくれないかな?」 ラッドの殺意ゲージが激しく上下する。 動揺の表情を見逃さず、少年が畳《たた》み掛けるように告げる。 口調も態度も、ガラリと変えて。 「勿論《もちろん》、それなりの報酬はお渡ししますよ。貴方《あなた》は自分自身の快楽を得る事が出来、私は身の安全を買うまでです。この場合の『身の安全』の意味は詮索《せんさく》しないで戴《いただ》きたいものですが」 少年から放たれたその言葉に、ラッドは眉《まゆ》を顰《ひそ》め、他《ほか》の二人も目を丸くしている。 今のは本当にこの子供から放たれた言葉なのか? その中で、ラッドだけがいち早く相手の本質を見抜き、問う。 「手前《てめえ》……子供《ガキ》じゃねえな?」 「飲み込みが早くて助かります」 チェスは社交的な笑みで頷《うなず》くと、そのまま交渉の続きに入る。 「乗客を全員殺してくれるのでしたら、報酬として二十万ドル」 今回の爆薬の取引で、チェスがルノラータから受け取る報酬は五十万ドルだ。それから見ればチェスにとって払えない金額ではないし、それで『不死《ふし》者』を特定できるなら安い物だ。彼らに乗客を殺させ、後はゆっくりと再生し始めた奴《やつ》を喰らってしまえばいいのだ。 当時の密造酒工場の下《した》っ端《ぱ》の週給が二百ドル前後だった事を考えれば、確かに大金ではある。 それでも、アル・カポネの密造酒の一日の売上分とほぽ同額だという現実が隣り合わせに存在するのだが。 「話にならねえ」 ラッドもたいしたもので、相手が子供の外見をした大人《おとな》だという異常な事態に即座に順応して見せると、さっさと脳ミソの使い道を金額交渉に切り替えた。 「食堂車だけで何人殺す必要があると思う?まあ、俺《おれ》らなら簡単に殺せるしどのみち半分は殺すつもりだが、そんな端金《はしたがね》でいいように踊らされるのは御免《ごめん》だぜ。それに、俺らはもう金には当てがあるんでね。今ごろは外の仲間が鉄道会社を脅《おど》してすかして一千万ドルぐらい要求してるとこだろうよ。適当にやらせてるからな、もしかしたら十億ドルぐらい要求してるかもな」 「そんな無謀《むぼう》な計画が成功するとでも?」 「するしないは問題じゃねえ。要は心意気の問題だ。それを言うんだったら、お前が金を払う保証もねえしなあ」 ラッドの言葉に、チェスは幼い顔を苦笑に歪《ゆが》ませる。 「確かにそうです。ただ、私が見るに貴方《あなた》は殺人狂ではあるが、社会に順応するだけの日常性を持ち合わせ、面白《おもしろ》い事に部下までいる。ですが、貴方は計画を立てるという事をまるでしないようだ。恐らく、今まではその場の成り行きに合わせて計算高く生きて来たのでしょう?」 「人の生き方を勝手に決めるな」 テンションを下げ始めるラッドとは逆に、チェスの言葉は更に勢いを増していく。 「なんでしたら、私が協力して差し上げましょうか?私は|N Y《ニユーヨーク》のルノラータ・ファミリーと取引しています。この事件が終わって貴方達がそのファミリーに優遇されるように口添えして差し上げても構いませんよ」 それを聞いて、ラッドの後ろにいた白服が異議を唱えた。 「ルノラータはNYでも大手の一つだぜ。そんな簡単に連続殺人犯を匿《かくま》うとは思えねえ」 「それは簡単ですよ。匿う必要を無くせばいいんです」 「は?」 「私はこの列車内に大量の爆薬を積んでいます。ルノラータとの取引に使用する為の爆薬をね。その一部を貴方達が食堂車の人間を始末した後に爆破させます。爆薬は念のために余分に積んでいるので問題はありません」 「どういう事だってんだ?」 「その爆破で列車の運行をストップさせ、その間に我々は列車を下りて逃走します。ああ、爆薬の残りを運ぶのは手伝っていただきますよ。ともあれ、爆発の原因は簡単ですよ。列車を占拠《せんきよ》した謎の黒服集団が列車を爆破。新聞の一面は間違い無いでしょうね」 ククと笑ってチェスは続ける。その瞳にだんだん狂気がみなぎり始める。チェスは気付いていなかったし否定するだろうが、その目にはかつてチェスが喰った『奴《やつ》』と同じ色を浮かべていた。 チェスに対して虐待《ぎやくたい》を行った時の、歪《ゆが》んで淀《よど》んだ瞳の色を。 「でもよ、」 「大丈夫ですよ、この列車に『楽団』が荷物を大量に積み込んでいた事は駅員達も目撃しています。それに、実際その箱には大量の武器が詰められていたようですから。貴方達の顔を見た人は皆死にますし、乗車名簿に乗っている貴方達は爆発に巻き込まれて粉々になった……そんなところで如何《いかが》でしょうか?」 そして、両手を軽くポンと合わせる。 「なんでしたら、どなたか一人だけ列車に残って『生き残り』を演じて証言をでっちあげるのもいいかもしれませんね」 そこまで言って、チェスは相手の反応を待つ為に口を閉ざす。少しの沈黙を経て、ラッドが静かにその口を開いた。 「納得いかねえな」 「ほう?」 「そんな爆弾があるんだったら、どうして自分でやらない?そいつに火をつけてやればそれで終《しま》いだろう」 「それでは、こちらの都合が悪いんですよ。まあ、ある人の死体に用がありましてね。粉々に吹っ飛ばれたら困るのですよ」 不死《ふし》者は通常、脳を中心として再生する。下手《へた》に爆弾で吹っ飛ばして、列車の外に頭が吹っ飛んでは目も当てられない。それに死体がそこまでバラバラになって入り乱れては、再生する肉体を探す間に意識を取り戻されてしまうかもしれない。チェスとしては、より確実に『不死者』を探し出す事を優先したかったのだ。 チェスは最後に、口調と表情を子供のそれに戻してラッドに『お願い』をした。 「ねえ、お兄ちゃん……やってくれるよね?」 殺意ゲージMAX。 ラッドは途端《とたん》にテンションに満ち溢《あふ》れる『生きた目』を取り戻し、楽しそうにチェスの眉間《みけん》に銃口《じゆうこう》を向けた。 「俺がその場その場の勢いで計算高く生きて来たっつったな。違うぜ腐《くさ》れガキ、俺は生きる事を計算した事は一度もねえ」 次の瞬間、ラッドのライフルが火を噴《ふ》き、少年の頭の上半分が弾け飛んだ。 「計算高く、殺してきたのさぁ」          ⇔ 「何で殺したんだよ、ラッド。いい話だったんじゃねえか?」 「んー、確かにな。だがよ、あいつの目を見たか?『絶対に自分は殺されない』って面《つら》あしやがってよ。奴《やつ》は俺達になんか殺されないって確信してやがった!このラッド・ルッソ様々を舐《な》めてくれやがったんだぜ?なんつーかさ、あれよ、単純に言ってムカつきまくりの撃ちまくり?」 「だからってよお」 「しかし気にくわねえ、頭を吹っ飛ばす瞬間になっても、あいつは余裕《よゆう》の表情を浮かべてやがった……なんだってんだ畜生め………」 チェスが目を覚ますと、部屋からラッド達の姿は消えていた。 ——やれやれ、思ったより厄介《やつかい》な奴のようだな。今、私は何秒ぐらい意識を失っていたのだろう?普段通りなら二十秒程度のはずだが。 チェスの不死《ふし》の体は、頭部が破壊される事に随分と馴染《なじ》んでいたようだ。再生が終わるのとほぼ同時に意識を取り戻していた。 ——ふん、『奴』には随分と頭部を破壊されたからな。鈍器《どんき》で刃物で壁で床で。そう言えば銃《じゆう》で撃たれたのは始めてだが、痛みが一瞬で済むのは良い事かもしれないな。 完全に頭部の傷が塞《ふさ》がった事を確認すると、チェスはそのまま貨物室を出ようとした。 その時—— 「わあああ!ジャグジー!怪我《けが》は浅いそしっかりしろー!」 「傷に別状は無いよぅ!」 通路から叫び声が近づいて来た。アイザックとミリアとかいう、変なガンマン達の声だ。 チェスはここで見られるのはまずいと思い、咄嵯《とつさ》に貨物の山の後ろに隠れた。 「あれ?誰も居ない」 「もぬけのカラだね!」 アイザック達は貨物の裏を探し始める。彼らが自分のいる所に近づいて来た時を見計らい、チェスは音を立てぬように反対側へと回り込んだ。 「おかしいな。さっきの話だと、ここで誰か撃ち殺された筈《はず》なんだけどな」 「何か取引を持ちかけられて、断った上に殺したみたいだったね!」 ——なんでそこまで知ってるんだ? 疑問に思いながらも、チェスはアイザック達が貨物の裏に回った瞬間を利用して部屋を逃げ出した。 ——仕方が無い、もう少し様子を窺《うかが》うとするか。もしかしたら、黒服達が食堂車の人質《ひとじち》を殺す機会があるかもしれないのだから。          ⇔ チェスは気が付いていなかった。その部屋には、もう一つの人影が潜《ひそ》んでいた事を。 その人影は、葡萄酒《ふどうしゆ》のように赤く染まっていた。 ——全然気が付かなかったな。まさかチェス君があんな悪念に満ちた子だったなんて。いや、子供じゃないのか。 クレアは乗客名簿を管理していたので、大抵の人間の顔と名前は一致する。白服と黒服は見事に全員|偽名《ぎめい》だったようだが。 白服達がこの部屋に入っていくのを見かけ、貨物室の下からそっと忍び込んだ。この列車の各車輌《しやりよう》には、緊急時の点検用のためにそれぞれ一箇所ずつ床を開けられるようになっている。 そこで貨物室の隅の蓋《ふた》を開けたのだが、まさかそこであんな会話が聞けるとは。アイザック達の声が聞こえたので、クレアは車輌下に戻ってそっと蓋《ふた》を閉めた。 ——さて、これからどうしたものか。まあチェス君は死んだからいいとしよう。ここは順当に、白服の連中の乗った二等客室に行ってみるか。 ずっと荷物の影にいたクレアは、チェスは撃たれて死んだものと信じきっていた。 クレアはここに来る前に、三等客室の白服を二人始末している。面倒だったので、同じ部屋にあった黒服の死体と一緒に列車の外に投げ落としてやった。 一度後部車輌に戻ったのには理由がある。決められた時間に車掌《しやしよう》室から『合図』を送らないと、機関士が異常を感じて列車を止めてしまう。そうなれば、黒服や白服が逆上して乗客を殺し始めかねない。それがなくとも、列車が止まるとクレア自身が困るのだ。 もっとも、黒服がすでに機関車輌を制圧している事も考えられる。だが、わざわざ車掌《しやしよう》の内通者を用意するぐらいなので、列車は出来るだけ自然に運行させようというのだろう。もしかしたら黒服達は、あの中年車掌が死んだ事にすら気付いていないかもしれない。 クレアはそう判断し、合図は必ず出し続ける事にした。 その為、クレアは定期的に車掌室まで戻る必要があった。 その途中で白服とチェスの姿を目撃し、後をつけた結果、今の状況に至ったのだ。 おっと、ヤバイヤバイ。機関|車輌《しやりよう》への合図が先だったな。 これから自分が為すべきことに気付き、車輌の下で体の向きをくるりと変えた。 幸いまだ時間に余裕《よゆう》はある。他《ほか》に黒服達が残っていないか探しながら行くとしよう。          ⇔ 「な?スッゲーだろ?屋根歩くと気っもちいいだろーよぉ?」 「……寒い……」 ラッドの問いに、ルーアは震える小声で呟《つふや》いた。 灰色|魔術師《まじゆつし》に屋根の事を聞いたラッドは、早速上に登ってみた。するとどうだ、星は綺麗《きれい》だし車輌を歩く敵にも見つからないし一石二鳥ではないか。 そう思ってルーア達にも登らせてみたのだが、どうも評判は良くないようだ。 「お前はよくそんなはしゃいでられんな、こんな危《あぶ》ねえとこでよ」 ラッドは平気で飛び跳《は》ねているが、他の二人は立ち上がるのがやっとの状況であった。 「そっかぁ?お前らバランス感覚ねえなぁー。もっとバランスいいもん食えよ。よくわかんねえけど」 つまらなそうに言いながら、ラッドはそのまま先に進む。 するとラッドは、いくつか先の車輌に人影を見つけた。どんな奴《やつ》かはよく解《わか》らないが、どうやら屋根の上を這《は》って進んでいるようだ。 ラおドは玩具《おもちや》を見つけた子供のように目を輝かせ、その正体を探ろうと画策《かくさく》する。 「おい、俺《おれ》はちょっと一等車輌の方まで行って来るからよ、お前らはもうあれだ、部屋に戻って休んどけ」 ラッドは二人の返事も待たずに屋根を走って行ってしまった。しかし、足音を殆ど響かせずに走るのは見事と言うべきだろうか。 ルーア達は互いに顔を見合わせると、自分達の部屋にもっとも近い連結部に降りて行った。心配は微塵《みじん》もしていない。彼らの頭の中では、ラッドが黒服連中ごときに負ける姿など、想像する事すらできなかったのだから。          ⇔ シャーネは、立っていた。 一等車輌の屋根の上で、凍《こお》るような風を背に受けながら。 彼女は白服を一人狩った後、暫《しばら》く屋根の上で様子を見る事にした。食堂車には見張りが立っており、あそこだけは通路と部屋が一体化した構造となっている。 ならば、戦力に劣る白服達は屋根を通って奇襲してくる可能性が大きい。 シャーネはそんな白服達を、たった一人で屠《ほふ》るつもりだった。 グース達の手は借りない。奴《やつ》らもいずれは裏切るという事を知っているから。そう、ネイダーと同じように。 グース達の狙《ねら》いはただ一つ。ヒューイと同じ肉体を得る事だ。彼らがネイダーと違うところは、革命に対する賛同はあるという事だ。だが、グース達にとってその中心はヒューイではない。革命が成功した暁《あかつき》には、彼らにとってヒューイは邪魔な存在となるだろう。それでも見せかけの忠誠心を見せるのは、ヒューイが与えると言っている『恩恵』を受けたいだけなのだ。 彼らの身体《からだ》を、ヒューイと同じようにするという恩恵を。 その体さえ手に入れれば、彼らはヒューイを追放するつもりなのだろう。そう、グース達は自分達がヒューイを騙《だま》し、利用していると思っている。なんとマヌケな連中なのだろう。 騙されているのは自分達の方だとも知らずに。 ヒューイはシャーネにだけ本当の事をよく話した。彼女が最後までヒューイについていくと解《わか》っていたのだろう。 彼女は知っていた。ヒューイ・ラフォレットの体が『不死《ふし》』だという事を。 彼女は知っていた。彼はその不死を分け与えると言って、革命の徒《やから》を募《つの》った事を。 彼女は知っていた。本当は、ヒューイは他人に不死を分ける事など出来ないという事を。 彼女は知っていた。本当は、ヒューイは革命後の世界に興味など無いという事を。 彼女は知っていた。彼の望みは、不死者の社会的な限界を見極めることだという事を。 彼女は知っていた。ヒューイは不死者が国家に勝てるのかを確かめたいだけだという事を。 彼女は知っていた。ヒューイが自分を好きだと言ってくれた事を。 彼女は知っていた。でもそれは、決して恋人としてではないという事を。 彼女は知っていた。ヒューイは自分の父親だという事を。 彼女は知っていた。『不死』は遺伝しないという事を。 彼女は知っていた。もうすぐ自分の肉体は父親より年老いてしまうという事を。 彼女は知っていた。自分は、ヒューイよりも必ず先に死んでしまうという事を。 グース達は今回ヒューイを救い出したら、恐らくヒューイから無理矢理『不死』を得ようとするだろう。かといって、国に囚《とら》われるのはもっと危険だ。捜査局の上層部にも『不死者』がいるらしい。もしかしたら、父がその男に『喰われて』しまうかもしれないからだ。 彼女の過去を知る者はただ一人。 彼女の家族はただ一人。 彼女を愛する者はただ一人。 彼女が愛する者はただ一人。 ヒューイ・ラフォレット。奪われるわけには行かない。 誰にも渡すわけにはいかない。 シャーネはヒューイを救い出すつもりだ。人質《ひとじち》をとるなど、こんな方法をヒューイが喜ばない事も知っている。だが、そんな事は関係ない。これはヒューイの為と称した、自分自身の欲望の為だけの行為なのだから。 これを邪魔《じやま》する者は、誰であろうと許しはしない。 例えそれが、伝説上の怪物だとしても。 食堂車の上を這ってくる人影が二つある。白服ではないようだが、邪魔をするつもりであれば容赦《ようしや》はしない。もしかしたら逃げ出そうとしている乗客なのかもしれないが、だとすれば殺す事が躊躇《ためら》われるのも事実だ。シャーネは二つの反する意志の中で、ただただヒューイの顔と言葉を想い続けていた。 だが、シャーネはそこで嫌《いや》な感覚に囚《とら》われた。何か禍々《まがまが》しい者が此方《こちら》を覗《のぞ》いているような、あるいは身体全体が悪寒に包み込まれるような、そんな不気味な存在が感じられる。 その正体は、這いずる人影の後方にあった。 赤い斑《まだら》の入った白服の男。 シャーネは直感する。それが、食堂車でグースの部下を二人殺した男だと。          ⇔ 「すげえなあ、あの女」 ラッドは食堂車の最後尾《さいこうび》に立ち、一つ前の車輌《しやりよう》に立ち続けている女を見つめていた。 這いずる人影を追いかけたら、こんなイカス女に出会えるとは。 ラッドは自分の勘《かん》の良さに感謝した。這いずる影を追いかけて本当に良かった。 煙の隙間《すきま》から時折|覗《のぞ》く、あの女の眼力の強さときたらどうだ。嫌悪感を抱かせず、ラッドにとって心地よい恐怖すら含まれる視線だ。そして、とても殺しがいのある女だ。今すぐにでも、あの瞳を絶望と恐怖の色に染め上げてしまいたかった。 白服集団のボスであるラッドは、いわゆる平凡な人間だった。叔父《おじ》のプラチドこそ裏社会の一角に名を連ねる人物であったが、彼と彼の家族自体は全くの一般人と言って良い環境を満喫していた。心に闇《やみ》を宿す原因などまるで見られない。シカゴでは至って平均的な家庭に育った と言えるだろう。彼の心に宿る殺戮《さつりく》への衝動《しようどう》は、何か特別な経験を得た事によって生じたものではない。ただ、ふと考えただけなのだ。人の生と死について、死ぬ人間と死なない人間の差異について。まるで夕食の献立を考えるのと同じぐらい気軽に、ただ、考えただけなのだ。 彼の心はその結論を求める内に、精神をその『過程』に蝕《むしば》まれていってしまった。気が付いた時には、彼の心は治療不可能なまでに病んでいた。歪《ゆが》んだ信念は強く育《はぐく》まれていった、折れる事も受け入れる事も知らぬままに。 トラウマも無く苦しみも無く、特別歪んだ過去も無く。そうしたものとは関係無しに、彼は歪みきった殺人狂と成り果てた。ただ一つ非凡《ひぼん》な点があったとすれば、人を殺す事に対する経験を、自らの一部として成長させる呑《の》み込みの速さだけだった。 彼なりの信念を持ち合わせてはいたが、所詮《しよせん》は美学という名の言い訳に過ぎない。この異常な状況の列車の中で、彼は自分の欲望の赴《おもも》くままに彷徨《さまよ》っていた。 そして今、彼は最高に面白《おもしろ》い玩具《おもちや》を発見したのだ。 横風が吹き、彼女の全身が浮かび上がる。 それを合図にして、ラッドは思わず叫んでいた。 「よ———う、この寒い中そんなドレスでさぁむくねえのお———?          ⇔ クレアは困っていた。無事に車掌《しやしよう》室から機関車輌に合図を送る事が出来たのは良しとしよう。変なガンマンがいて車掌室に入り辛《づら》かったが、刺青《いれずみ》の青年と大男につれられて出て行ったので、なんとか時間通りに合図を送る事が出来た。これでまた暫《しばら》くは時間が稼《かせ》げるだろう。 彼が困っていたのは、その後の事だ。 車両の下を潜《もぐ》って二等|車輌《しやりよう》までやって来たのはいい。列車の側面の突起にしがみついて窓を覗《のぞ》けた事にも、特に支障《ししよう》は無かった。問題は、白服達がいるはずの部屋に三等車輌の人間がいた事だ。しかも、二人も。 一人は灰色の布を体中に纏《まと》う男。彼は確かフレッドとかいう医者だ。もう一人は——顔が血塗《まみ》れとなっており、誰だか判別がつかない。それでも三等車輌の客だと思ったのは、着ている服が明らかに路地裏の不良のようなものだったからだ。服装で差別するわけではないが、今日の客であんな格好の奴《やつ》は三等車輌の客にしかいなかった。 どうやら魔術師《まじゆつし》のような格好をした医者——フレッドが、血塗れの男を治療しようとしているようだ。 行為自体は自然な事だが、何故《なぜ》二等客室の、しかも白服達の部屋へ行っているのか。 クレアの頭を疑問符がよぎる。 その時部屋のドアが開き、男女の白服が入ってきた。クレアはその二人に見覚えがあった。 チェスが撃たれた部屋にいた、白服三人組のうちの二人だという事に。 「……ぁ」 ドアを開けて、ルーアは他人には聞き取れないような声を出した。 「何だてめえら!」 それに続いて、仲間の白服が大きな声をあげる。 自分達の部屋に戻って来たのはいいが、何故ここに夕刻出会った『魔術師』がいて、先刻ラッドが血塗れにした男を治療しているのだろうか。 「おや、ここはキミらの部屋かね」 灰色の魔術師が、静かに言う。 「ラッドという君らの友達の好意に甘《あま》えさせて貰《もら》ったよ。ありがとう」 そう言いながら、魔術師は血塗れの男の治療を再開する。 白服の二人は顔を見合わせる。——どういう事だろう。ラッドがそんな真似《まね》をするなんて。そんな表情を顔に浮かべながら。 魔術師《まじゆつし》は治療の手を休めないまま、二人の白服に頭を下げた。 「非常に申し訳ないが、出来ればこの患者《かんじや》を寝台に乗せる作業を手伝って貰《もら》えるかね」 ——どういう事だ。今の会話を聞くと、このフレッドって奴《やつ》は敵なのか味方なのかよく解《わか》らないな。 窓の外で考え込んでいると、ふと、白服の女がこちらを向いている事に気が付いた。 クレアもそちらを向き、目が合った。クレアは女に悲鳴を上げられるものと思ったが、彼女は静かにこちらを見つめるまま、何の反応も見せようとしない。 ——変な奴だな。まあいい。ここは後回しにしよう。 クレアはそう考え、ゆっくりとその身を窓から離れさせた。 その時。 屋根の上を激しい勢いで誰かが走る音が聞こえた。しかも、立て続けに二つもだ。 クレアは下に下りる事を止《や》め、屋根の上に上半身だけ覗《のぞ》かせる。そして足音が過ぎて行った 方向を見ると、どうも二つの人影が後部|車輌《しやりよう》に向かっているようだ。月光が僅《わず》かに照らす色を見るに、どうやら白服の男を黒いドレスの女が追いかけているようだが。 クレアは身体《からだ》を再び降下させると、その身を車輌の下に潜《もぐ》らせる。猿《さる》のような無賃乗車女の動きとは違い、その動きは安定していながらスピードも早い。機械的に蠢《うごめ》くその姿は、まるで真紅《しんく》に染まる巨大な蜘蛛《くも》のようであった。 やがて三等車輌付近の連結部にたどり着くと、クレアは一度上に登った。さっきの黒服と白服の位置を確認しようと思ったのだが、まだ屋根の上にいるのだろうか。 いったん通路も確認しようとドアの窓を覗き——眉を顰《ひそ》める。 三等車輌の通路を、一つの影がコソコソと歩いているのが解った。その影の背は低く、クレアはその正体が直《す》ぐに解ったのだが、頭の中に僅かな疑問が生じる。 ——チェス君って、さっき死ななかったっけか?          ⇔ チェスは三等車輌の一室に入り、クッションのない座椅子《ざいず》に腰を下ろした。ベッドが付くのは二等客室からだ。三等客室では座席にそのまま寝る形となっている。 貨物室からここまでの間、他《ほか》の部屋には三等客室の乗客が縛《しば》られたりしていた。ドアをそっと覗きながら一室一室確認して、ようやく誰もいない部屋に辿《たど》りついたのだ。 それにしても黒服の姿が見当たらない。縛《しば》り付けた乗客を見張ったりしているのかと思ったのだが。チェスは疑間に思いながらも、恐らく白服達に始末されたのだろうと考えて納得する事にした。 ——とりあえず、この部屋で暫《しばら》く様子を見る事にしよう。黒服と白服、どちらか一方になってから動いた方がやりやすい。 チェスは静かに目を閉じ、しばしの休息を取る事にした。かといって決して寝入ってしまわないように、意識だけは途切《とぎ》らせないように注意を払いながら。 その時、ドアが僅《わず》かに開く音が聞こえた。 「!」 チェスは即座に飛び起きると、部屋の入り口に全神経を集中させる。 ドアの隙間《すきま》は徐々に大きく開き、通路の明かりを遮《さえぎ》って現れたのは——赤い服を身に纏《まと》った、顔面に血|化粧《げしよう》をした怪人の姿だった。 チェスはその赤さに一瞬|戸惑《とまど》ったが、服の一部に赤く無い部分があるのを見て、即座にその色の正体を悟《さと》った。それは元からの服の色ではなく、大量の返り血に染め上げられたものだという事に。 一部に残る地の色が白かったため、チェスは男が白服の一味だと勘《かん》違いした。 「誰?ラッドお兄ちゃんのお友達?」 子供らしい声を出すが、相手からの返答は無い。 「何……?ねえ、誰なの」 チェスの中に僅かな不安が広がり始める。 赤い男はチェスの言葉を無視し、入ってきた扉をパタリと閉める。奇妙な男と二人きりの状態になって、チェスの不安はますます広がって行く。 もしかしたらこいつが『不死《ふし》者』かもしれない。食堂車では見かけなかったが、この雰囲気からするとありえない話ではない。 「ねえ、返事してよ。ボクはトーマスだよ、ねえ、人違いしてるんじゃないかな」 あっさりと偽名を名乗る事が出来た。つまりこの怪人は『不死者』では無いという事だ。チェスは心中で大きな安堵《あんど》の息を漏《も》らす。相手が不死者でないのならば、何も恐れる必要は無い。 ところが、怪人が始めて口を開いた時、チェスの心は再び不安の波に襲われた。 「何故《なぜ》嘘《うそ》をつくんだい、チェス君。いや、チェスワフ・メイエル」 「な、何でボクの名前を?」 その問いに、赤い怪人は答えない。チェスはどこかでこの男に会ったことがあるだろうかと、記憶の糸を必死になって探り続ける。どこかで声を聞いたような気もするが、誰だったのかまでは思い出せなかった。単に誰かと声が似ているだけなのかもしれない、そう考えていた。 その男が乗車前に名簿をチェックしていた車掌《しやしよう》だと、チェスは結局最後まで気が付く事が出来なかったのである。 ——なんだ?何なんだこの男は?こいつの瞳はなんだ?さっきのラッドとかいう奴《やつ》より数倍恐ろしい眼つきをしている。なんだ、まるで人間ではないような——まさか——ありえない。いや、だが、『悪魔』が存在したのならば、あるいは—— 少年の脳裏に食堂車で聞いた御伽噺《おとぎばなし》が思い出され、思わずその名を口に出してしまう。 「れ……『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』……?」 少年の呟《つぶや》きに、怪物は少し不思議そうな、それでいて少し嬉《うれ》しそうな表情を見せた。 「ほう、よく解《わか》ったな」 チェスの頭に、アイザックの語った御伽噺の内容が繰り返される。——悪い事をしてると、『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』に食われちまうぞ——。 鼓動が高鳴る少年に向けて、怪人はその足を一歩踏み出した。 「俺が——『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』だ」 普通に聞いたら趣味の悪いジョークにしかならない事を、クレアは自信満々で言い放つ。だが、その目を見てしまっていたチェスにとっては冗談《じようだん》では済まなかった。その男の目は口ぶりとは裏腹に、相手の全《すべ》てを食らい尽くさんばかりの暗い光を湛《たた》えていたのだから。 「お前がガキじゃない事も、お前の目的も解ってる。だから、まあ、殺しとく」 相手が子供ではない以上、彼は情けをかけるつもりは無い。チェスは列車の敵であり、同時にルノラータ・ファミリーに協力している。二重の意味で敵であるなら、殺す理由は十分だ。 「う、うわぁぁあ!」 伝説の怪物を名乗る男を前に、チェスは腕の裾《すそ》を大きく捲《まく》り上げる。その腕には革のバンドが巻きつけられており、布に包まれた棒状の物が嵌《は》められていた。 チェスは慌《あわ》ててその棒状を腕から取り外すと、包んでいた布を乱暴に剥《は》ぎ取った。 その下から表れたのは、鋭利な刃物。切開手術などに使われるメスを、二倍近く長くしたような武器だ。 チェスはそのまま身を低くすると、素早く男に突進した。 怪人の眼前で伸び上がるように体を起こし、そのまま長メスで怪人の喉《のど》を切り裂《さ》こうとする。 銀の閃《ひらめ》きが、綺麗《きれい》な弧を描いて怪人の喉下に迫った。 パシリ。 怪人は、その場を一歩も動かなかった。まるで蚊《か》でも捕まえるような動作で、チェスの腕をあっさりと掴《つか》み止めたのだ。 そしてチェスが抵抗する間《ま》もなく、男は反撃を終了させていた。 怪人は右手で刃《やいば》を止める。それとほぼ同時に、彼の左手はチェスの首をガシリと掴み、そのまま首の肉の一部を|抓《’》り《’》千《’》切《’》っ《’》た《’》。 「あ……」 チェスが小さな声を漏《も》らす。怪人の左手が赤く染まっており、血がポタポタと床に垂れている。怪人はそのままチェスの長メスを奪い取ると、小さな身体《からだ》を強く蹴《け》って突き放す。 少年は大きくよろめきながら後ろに下がると、そのまま部屋の一番奥——窓の下にへたり込んでしまった。 頚動脈《けいどうみやく》の辺りが挟《えぐ》り取られている、普通に見ればどう考えても助からない傷だった。 ——終わったな。 クレアは倒れる少年を見つめ、そのまま部屋を出ようとする。だが、右手に奇妙な違和感を覚えて立ち止まった。何事かと手を見てみると、その手に塗れた血がぶるぶると震えているではないか。決して手が震えているのでは無い。その液体自体が震えているのだ。 ——なんだ? 右手についたチェスの血が、物|凄《すご》い勢いで床に落ちる。クレアの手にはもはやチェスの血は一滴《いつてき》たりとも残ってはいない。 床に垂れた血はまるで生き物のように蠢《うごめ》き、床を這《は》いずって本来の在り処《どころ》——チェスの肉体へと戻っていく。 部屋に飛び散った血が次々と集合を繰り返し、チェスの傷ロへと這《は》い登って行くではないか。 「なあんだ」 完全に傷口が塞《ふさ》がると同時に、チェスが子供の口調のままで楽しそうに呟《つぶや》いた。 「その程度なんだ、ビックリして損したよ。本当に丸|呑《の》みにされたりするのかと思った」 何事も無かったかのように立ち上がると、チェスはクスクスと笑いながらこう言った。 「驚いた?ボクね、不死身《ふじみ》なんだよ」 目の前の怪人が動きを止める。ちょろいものだとチェスは思った。最初は怪物だと思っていたが、どうやら殺し方は人間と一緒らしい。ならば恐い事など何もない。 ——そうだ、こいつを利用してやろう。『永遠の肉体を与える』と言えば、食堂車の人間を鏖《みなごろし》するぐらい簡単にやってくれるかもしれない。 チェスはにっこりと微笑《ほほえ》むと、目の前の赤い男に『お願い』をする事にした。 「ねえ、お願いがあるんだけどさ——」 「断る」 ——え? チェスの思考が一瞬止まる。まだ『お願い』の内容を話してすらいないのに。 「食堂車の人間を殺せとか言うんだろ?そんな命令は聞けないな」 チェスの心に、三度目の不安がこみ上げてくる。 ——なんでそんな事まで。 余裕《よゆう》の笑みが消えたチェスと入れ替わるように、怪人の口がとても愉《たの》しそうに歪《ゆが》められた。 「不死身《ふじみ》か、面白《おもしろ》い」 クレアの手が閃《ひらめ》き、スコ、と小さな音がした。 それは、チェスの眉間《みけん》に長メスが突き刺さる音だった。チェスの頭に激痛が走るが、何とか意識は失わずに済んだ。ただ。視界がぼやけ、頭の中を稲妻の様な痛みが走り回る。彼は上手《うま》く動かない手を駆使《くし》し、なんとかメスを引き抜いた。 痛みが止まり、感覚が正常に戻り始める。 「かなり痛かったが、この程度じゃ私は死なない。いや、どの程度でも死にはしないさ」 もはや子供を演じる必要はない。チェスは言葉を大人《おとな》びたものに変え、目の前の怪物に対する対抗策を模索し始める。 とりあえず武器を取り戻す事は出来たが、この怪人を屠《ほふ》る事は至難《しなん》の業《わざ》に思える。それに、まさか不死身の体を見て『面白い』の一言で済まされるなどと、チェスは夢にも思っていなかった。 赤い怪人はチェスへ数歩近づき、首をコキコキと鳴らしながら告げた。 「さて、どうしてくれよう?不死身って事は、生皮《なまかわ》を剥《は》がしたり目を抉《えぐ》ったり生きたまま心臓を握り漬《つぶ》したりしても平気という事なのか?」 淡々と喋《しやべ》るクレアに対し、チェスも淡々と返事をする。 「やればいいさ。そんな程度の苦しみはもう慣れきっている」 「ほう?」 チェスの頭の中には、自分がかつて『奴《やつ》』に与えられた痛みの数々を思い出していた。怪人の言うような責め苦など、最初の頃に十分過ぎるほど味わっている。 チェスはクレアの事を強く睨《にら》みつけながら、小さく、力の籠《こも》った声で語り出す。 「焼けた火箸《ひばし》を目と耳に突き刺された事はあるか?酸の風呂に浸《つ》けられた事はあるか?生きたまま暖炉の中に放り込まれた事があるか?私は、私は自分の信じていた人間に毎日そんな痛みを与えられて生きて来たんだ。その気持ちがお前に解《わか》るか?私は貴様のような暴力には屈しない。お前なんかとは痛みに対する覚悟《かくご》が違うんだ!」 それを黙って聞いていたクレアは、また一歩チェスに近づきながら口を開く。 「それでお終《しま》いか?たったその程度でお終いか?」 「なん……だと?」 「駄目だなお前。そんなのは|趣《’》味《’》の《’》範《’》囲《’》じゃないか。どうしようもない変態のな。まあ、そんな趣味は俺《おれ》には到底理解できないが——」 更に一歩近づき、チェスの頬《ほお》を手でペチペチと叩《たた》く。 「生きたまま腕の肉を|丁《’》寧《’》に《’》削《は》がれた事はあるか?そのまま腕の骨に彫刻を入れられた事はあるか?中国の処刑法を知ってるか?日本の拷問《ごうもん》を知ってるか?ヨーロッパの変態貴族の延命法を知ってるか?」 頬を叩くのを止め、クレアはその目に怪物の色を浮かべる。まるで、チェスの魂を吸い取ろうとしているかのように。 「仕事柄、痛みを与える方法は山ほど知ってるんだよ。殺す事を前提としたやつもな」 チェスはその目を見て声にならない悲鳴をあげた。そして、手にしたメスを思い切り振り回そうとする。 ギチャ 次の瞬間、長メスはクレアの口に噛《か》み咥《くわ》えられていた。チェスの手ごと口で受け止められ、その細い指ごと噛み千切《ちぎ》られたのだ。 「ぎあ……ああ」 鈍《にぶ》い悲鳴を上げると共に、チェスの右手から大量の血が迸《ほとばし》る。 クレアは血肉の塊《かたまり》とメスを床に吐《は》き捨てると、チェスの頭を両手で抑えながら静かに優しく言い聞かせた。 「いいか、チェスワフ・メイエル。お前は確かにある程度の痛みには覚悟《かくご》を抱《いだ》いているようだ。 だが、俺《おれ》の姿を見た時の、『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』を前にした時の、お前の目に浮かんだ不安の色はなんだ?」 チェスの目をじっと見つめる。チェスは顔の神経が引きつったように動かなくなり、目を閉じる事も逸《そ》らす事すらも出来なくなっていた。それ程の力が、今のクレアの瞳には籠《こも》っていたのだ。 ——足の先から体が少しずつ震えてくる。これはなんだ、私は今、もしかして——恐怖しているのか?目の前にいるこの怪物に——他愛も無い御伽噺《おとぎばなし》の中の存在である怪物、『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』に! 「お前が恐れているのは『未知』だ。自分の知らない所に、いまだかつて味わった事の無い痛みや苦しみがあるかもしれないと考えている。だからお前は人一倍未知なる物を恐れる。そうだろう?なまじ痛みを知っているから、その痛みに対する恐怖は人一倍だ。なあ?」 怪物の瞳にチェスの顔が映った。その中に浮かぶ恐怖に怯《おび》えた目。それは子供でも大人《おとな》でも共通のものだ。子供を演じる自分と大人を気取る自分。そのどちらが本当の自分なのか、チェスは時々迷っていた。そういう意味では、その怯える顔こそが本当の彼自身なのだろう。 恐怖に囚《とら》われ、チェスは無意識のうちに涙を流し始める。 「俺がお前に与えてやろう、未《’》知《’》の《’》痛《’》み《’》を与えてやろう」 その涙を手で拭《ぬぐ》ってやりながら、クレアは少年に優しく告げた。 「生き返り方を、忘れるまでな」          ⇔ レイチェルは、車輌《しやりよう》の下で息を殺していた。 丁度《ちようど》人が横になれる隙間《すきま》を見つけ、そこに挟《はさ》まって寝るように手足を休める。首だけを動かして周囲を見るが、あの赤い怪物は見当たらなかった。 そこで暫《しばら》く手足を休めていたのだが、やはり赤い怪物への不安は拭《ぬぐ》いきれない。カタカタと震えながら暫くその場に落ち着き、ゆっくりと冷静な自分を取り戻していった。 そのまま時は流れ、彼女の心は確実に落ち着きを見せている。 ——よし、あれは幻覚だったという事にしよう。 実際はあれが現実だという事など百も承知だったが、無理矢理そう思う事にした。とにかく今重要なのは、食堂車があの後どうなったのかという事だ。 食堂車まで戻って中の様子を覗《のぞ》いてこようと思ったその瞬間。 パリン 耳を劈《つんざ》く走行音の間に、何かガラスが割れるような音が聞こえた気がする。 そして一呼吸を置き、何かが自分の真横の鉄棒に絡《から》みついた。 それは、見覚えのある光景だった。 真《ま》っ赤《か》な人影が別の誰かを羽交《はが》い絞《じ》めにしており、車輌《しやりよう》下に絡《から》む両足だけで水平に姿勢を保っている。 そして、その右手を猛《もう》スピードですれ違う地面に押し付けて—— レイチェルは吐《は》き気を催しながらも、目を逸《そ》らす事が出来なかった。もし目を逸らしたら、その瞬間にあの赤い怪物がこちらを振り向くような気がして。吐き気の理由はもう一つある。 赤い怪物に殺されているのが、まだあどけなさの残る少年だったからだ。見覚えはある。食堂車で変なガンマン達と喋《しやべ》っていた少年だ。 少年の細い右手と両足が無くなった。もうとっくに死んでいるのに、何故《なぜ》そこまでするのだろう。 疑問を頭に巡《めぐら》らせながら震えていると、作業着の裾《すそ》についている金具が、周囲の鉄と触れ合って小さな音を鳴らし始めた。 そのカチカチという小さな音は、列車の大音響に掻《か》き消される筈《はず》だった。レイチェル自身の耳にすら、その金属音は届いていなかった。 それなのに、赤い怪物はしっかりとその音を聞き分けていた。 怪物の首が、グルリと此方《こちち》を向いた。地面の照り返しからは逆光になり、顔の表情はよく解《わか》らない。だが、その怪物はレイチェルの方を向いてこう呟《つぶや》いた。 「無賃乗車女……」 「いやっあああああああああッ!」 レイチェルはあらん限りの悲鳴を上げて、そのまま列車の前方へと逃げて行った。背中が地面に擦《す》れそうなほど不安定にぶら下がっての移動だったが、スピードだけは異常に速い。ナマケモノを100倍速で見たような動きで、レイチェルは闇《やみ》の中にその姿を消していった。 チェスに様々な『痛み』を与えていると、チェスが耐えかねて窓から飛び出そうとした。 大窓のガラスを割って逃げようとするチェスを、クレアが寸前で抱《だ》きとめてそのまま側面を落ちかけた。咄嵯《とつさ》に足で車輪の間の配管を捉《とら》えたので、ギリギリのところで落ちずに済んだ。 そこでクレアは、『列車からチェスの肉片を落としたら、それはチェスを追いかけてくるのだろうか』という事が気になり、チェスの手足を地面に押し付け始めた。 残るは左手一本という状況で、クレアの鋭い聴力が異常を捉えた。 その音に上半身と首を捻《ひね》って振り向くと、そこには先刻の無賃乗車女がいた。 声をかけると、走行音を貫く勢いの悲鳴を上げる。止める間《ま》も無く、クレアも感心する程の速度で逃げて行ってしまった。 クレアはそこでふと動きを止め、チェスの身体《からだ》を右手に抱《かか》えたまま、左手で懐《ふところ》から細いローブを取り出した。貨物室で拾った細いロープだ。恐らく楽団の荷物を縛《しば》っていたものだろう。 クレアはそれでチェスを列車下の車輪の間に起用に括《くく》りつけると、そのまま彼を置いて車輌《しやりよう》の下を進んで行った。 ——危《あぶ》ない危ない。こんな奴《やつ》よりも黒服と白服を先に始末しないとな。現実に引き戻してくれた無賃乗車女に感謝しなくては。礼として、警察に突き出すだけで見逃してやるとしよう。 クレアは去り際に、意識があるのか無いのか解《わか》らないチェスに二言だけ告げた。 「続きは後だ。——お前が発狂するまでやるからな」 意識が朦朧《もうろう》とするチェスの真上から、微《かす》かに人の話し声が聞こえてくる。 「……どうした?」 「ちょっと来てくれ。こいつを見てみろ」 黒服の二人が三等客室から顔を出したのは、クレアが去った直後の事だった。          ⇔ 三等|車輌《しやりよう》の前で二手《ふたて》に分かれた五人の黒服達。その内三人は貨物車輌に辿《たど》り着いていた。 眼前に広がるのは、血の海に浮かぶ下半身の無い死体。 「ひでえな……」 最初の貨物室に転がっていた仲間の死体に恐怖を覚えたものの、何とか落ち着きを取り戻す。傍《かたわ》らには無線機が置かれたままだったので、急いでグースの元に連絡を入れた。 「——という状況でして、無線機はなんとか無事だったのでこうしてーはい、はい、そうです、死体は一つだけです。これから車掌《しやしよう》室に向かうところです——え?——はい、はい————了解《りようかい》致しました、それでは」 無線機のスイッチを切り、連絡した男は残る二人に向き直った。 そして回りの様子を窺《うかが》いながら、慎重《しんちよう》に仲間に『指令』を告げる。 「コード|β《ベータ》が発動された。白服と交戦していて隙があらば、という条件つきだがな」 それを聞いて、二人の顔に緊張の色が増す。 「本当にやるんですか、シャーネさんを……」 「作戦内容を声に出すな」 リーダー格の男が更に慎重に周囲を窺う。 だが、部屋の中に完全に人影が無いと確認した瞬間、天井《てんしよう》からテンションの高い声が降って来た。 「その話さぁー。詳《くわ》しく教えてくれねっかなーっと」 言うが早いか、白い影が天井から降りて来て、リーダー格の横にいた男の喉笛《のどぶえ》を切り裂《さ》いた。 白い影——ラッドの右手には、屋根の上でシャーネに投げつけられたスローイングナイフが握られている。 「楽しいねぇー。いやいやいやいやいやいやいやぁ、天井の鉄骨にぶら下がるってのは、結構しんどいもんだよお?」 相手が銃《じゆう》を持ち上げる暇を与えず、ラッドは黒服のリーダー格に襲い掛かる。あっという間《ま》に後ろ手を取って首にナイフを突きつける。 「ハイハイハイ、銃捨ててー。あとそこの気弱そうなキミも銃捨ててー。キミが撃ったら多分この人に当たっちゃうよー」 ラッドの声に、リーダー格は悔しそうに歯|噛《が》みしながら銃を落とす。一方気弱そうなほうの黒服は、銃を落としてとっとと部屋から逃げ出してしまった。 「おやおや、逃げちゃったよ。薄情だなぁおい」 ラッドは逃げる黒服の背を愉快そうに見送りながら独り言を始めた。 「まあ、臆病《おくびよう》たあ言わないさ。俺《おれ》を見て逃げるのはこりゃすなわち通常の反応だもんなぁ。それに、俺だってさっき逃げ出してここの天井《てんじよう》に隠れてたばっかだしなぁ」 キヒャキヒャ笑いながら、黒服の首筋にナイフを当てて無理矢理移動させる。 貨物室のドアを閉め、そのまま今度は部屋の隅に黒服を連れて行った。 「いやー、愉《たの》しいねえ!俺の方から逃げたのなんて始めてだよ!凄《すご》いなあの女!褒《ほ》めてやれよいや寧《むし》ろ俺が褒める!でも殺す!」 笑い声にあわせてナイフの先が首筋と擦《す》れ合う。黒服は肝《きも》を冷やしながら、白服の次の言葉を待った。 白服は急にテンションを落とし、ナイフの先を黒服の喉《のど》にめり込ませ始める。 「お前ら本当に武器がすげえだけの素人《しろうと》だな。最初は軍人の集まりかと思ってよお、『始めて緩《ゆる》みきった性根《しようね》の軍人に会えた』ってドキドキしてたんだぜ?なのに蓋《ふた》を開けて見りゃ、まるっきり期待はずれだったじゃねえか。あの女を除いてな、クク」 ニヤリと笑みを浮かべ、更に1ミリ刃《やいば》を沈める。 「シャーネってのはあの女の名前で、交戦する白服ってのは俺の事だろ?教えてくれねえかなぁ……どうしてお前ら、仲間のあいつを殺すんだ?」 ナイフの切っ先は、少しずつ少しずつ黒服の喉にめり込んでいった。          ⇔ 一等|車輌《しやりよう》の下、レイチェルは一人で震えていた。 何故《なぜ》こんな事になったのだろう。何故、何故、何故、何故……。あの化け物はなんなのだ。 この列車は化け物が車掌《しやしよう》をやっているのか? あの化け物は、形こそは人間だが中身は絶対に違う!最初は黒服達だけを殺しているのかと思ったのに、あんな小さな子供まで殺すなんて。やはりあの赤い化け物は人間の心など持ち合わせていないのだ。 どれだけの時間、同じ事を考えて震えていただろう。食堂車で銃撃《じゆうげき》戦が起こった時にも息一つ乱さなかった彼女が、今は恐怖に身も心も支配されている。 情報屋の小間使いとして、様々な危険に足を突っ込んで来た。殺されかけた事も何度かあった。しかし、今受けている恐怖はその比ではなかった。 マフィアも飛び交う弾丸も、まだ『理解できる』恐怖だ。その存在は確実だし、彼らの恐怖を全《すべ》て覚悟《かくご》した上で足を踏み込むのだ。無論、その覚悟を上回る恐怖を受けた事も何度かあるが、レイチェルとしては決して切り抜けられないものではなかった。 だが、あの赤い怪物は次元が違う。あれの存在は『理解ができない』。どう対処するべきか、 どう覚悟《かくご》するべきなのか、まるで想像がつかないのだ。 あえて一つだけ理解できる事をあげるとするならば、『無賃乗車の自分は、決して奴《やつ》に捕まってならない』という事だけだった。無賃乗車ではなくとも捕まりたくは無い存在であったが。 ここから先は機関|車輌《しやりよう》だ。ボイラーなどが犇《ひしめ》く場所に潜《もぐ》るのは危険が伴う。レイチェルは行き場を失い、連結部の傍《そば》の金具に身体《からだ》を水平にさせて横たわる。と言っても、上下に狭い車輌下では自然と身体を水平にせざるを得ないのだが。 暗闇《くらやみ》の中、線路の下に敷き詰められた砂利《じやり》が月光を照り返している。その明かりだけが暗闇に対する唯一の対抗手段だった。勿論《もちろん》、殆《ほとん》ど役には立たなかったが。 ——ここでこうしていても埒《らち》があかない。レイチェルは、取りあえず一等車輌の様子を見てみる事にした。あの赤い化け物と比べれば、マシンガンを持った黒服達を相手にした方が余程マシというものだ。 彼女はここで待つことよりも、自ら動き回って逃げ切る事を選んだ。厄介事《やつかいごと》に巻き込まれるつもりは無い。自分はただ、逃げ切りさえすればそれでいいのだ。 車輌の間から慎重《しんちよう》に顔を出し、一等車輌の側面を見る。 他《ほか》の車輌と同じように、デザインである側面の装飾に手をかけられるようになっていた。 彼女はその一つを手で掴《つか》むと、ロッククライミングでもするように身体を側面に張り付かせた。余程慣れた人間でなければ、この過程で列車から落ちてあの世行きだろう。 レイチェルは子供の頃から、停車中の列車で様々な状況を想定したシミュレーションを行って来た。全く平坦《へいたん》な車輌の側面を登る事に比べれば、この装飾だらけの派手な列車を登る事など簡単なことだった。 いっそのこと、機関車輌の上を登っていれば見つからないのではないだろうか。激しい煙が自分を隠してくれる筈《はず》だし、そこまでわざわざやって来る者はいないだろう。 一瞬そう考えたが、煙でこっちが窒息しかねない上に、煙突周辺の温度がどのぐらいなのかは未経験の領域だ。とりあえず屋根の上に登ってから考える事にし、レイチェルは窓にそっと近づいた。とりあえず、中の状況を確認しておこうとしたのだが—— そっと覗《のぞ》いてから、レイチェルは後悔した。 ——見なきゃ良かった。 それは、両手両足を縄《なわ》で縛《しば》られた幼い娘《むすめ》と母親の姿だった。横には、マシンガンを持った黒服が一人。 ——ダメダメダメダメ!関わったらいけない!関わったら私が死ぬ!情報の為なら危険にも足を突っ込むけど、こんな金にならない事で自分の命を晒《さら》したら駄目《だめ》! 必死で自分に言い聞かせながら、そのまま屋根へと登って行く。 そんな彼女の脳裏に、父親の姿が浮かぶ。会社に見捨てられ、苦労だけを背負い込んで死んでいった父の姿が。我が身の可愛《かわい》さに、会社は父を見捨てたのだ。 ——ちょっと待ってよ私!それとこれとは話が全然別だよ!こっちはもう命がかかってる状況なんだってば!そんな安っぽい理屈で命を粗末《そまつ》にしたら、それこそ今までの人生を否定するようなものじゃない! 自分自身を必死に叱《しか》り付けるが、もう遅い。父の顔が脳裏にこびりついて離れない。 ——何やってんの!違うってば!無賃乗車の常運の私が今更そんな事したって何の償《つぐな》いにもならないって!だからだから止《や》めなきゃ、止めなきゃ、私の身体《からだ》を———— 気が付くと、彼女の身体は窓の真上に位置しており、そのまま足を少し下げて—— ——ダメダメダメ!止めなきゃ止めなきゃ!止めろ—— そして、彼女の爪先《つまきき》が窓をカツカツと蹴《け》り付ける。 ——やってしまった。 窓が開き、黒服の男が顔を出す。 視界の下にその姿を確認して、彼女は覚悟《かくご》を決めた。 ——やってしまったからには、最後までやりとげよう。 彼女は両手を側壁から離し、重力に任せて落下した。両足の裏にやわらかいものを踏んだ感触があり、体の落下が一瞬止まる。それを感じると同時に、彼女は窓|枠《わく》に逆手《さかて》に指をかけ—— 男の上半身に思い切り体重をかけた。 男の体がバランスを崩し、仰《の》け反《ぞ》るように落下を始める。レイチェルはすかさず足を前に動かし、まるで黒服の腹の上を歩くようにして車内に足を入れた。入れ代わりに男が外に落ちていった。ゴロゴロと転がっていく男を見て——殺人者にはなりたくないのでどうか死なないでくれ——そう思いながら、レイチェルは部屋に降り立った。          ⇔ クレアは食堂車に辿《たど》り着くと、外から中の様子を窺《うかが》った。 食堂車には見張りが二人いて、両手にはマシンガンを持っている。 「仕方が無い」 クレアは小さく呟《つぶや》くと、片目をつむりながら車輌《しやりよう》の下に潜《もぐ》っていく。そのまま車輌の裏側の真ん中にある、黄色いマークのついた箱に手を伸ばす。 箱からは幾つかの小さなレバーがついており、その内の一つに手を伸ばした。 「こんなもんに金をかけるんなら、車掌《しやしよう》室と機関室に無線システムを入れてくれってんだ。それに、発電機の切り替えスイッチが車輌下にあるのは……どう考えても欠陥設計だよなあ」 それは、『フライング・プッシーフット』の特徴である、各車輌の車輪から電灯の発電を行うシステムの要《かなめ》だった。 かつては機関車のボイラーの安全弁の後ろにあるタービンによって、客車の照明なども全《すべ》て賄《まかな》っていた。やがてそのタービンからの電気は客車には繋《つな》がらなくなり、機関車輌前のライトなど専用に切り替わっていった。 この列車では車軸から発電を行い、各車輌ごとに電気の配線が独立している。その結果として、この列車独自のシステムは通常よりも発電量が多く、車内に真昼のような明るさを演出する事が可能なのであった。 その配電盤の一つが車輌《しやりよう》下にあるのだが、クレアが手を伸ばしたのはその配電盤の切り替えスイッチであった。 「列車の下に忍び込まれたら、簡単に停電させられるだろうに。こんな風に」 レバーを引くと同時に、素早く車輌の外に出る。 「さて、少し無茶をするとしようか」 そう呟《つぶや》いて、彼は走行中の列車の側面で曲芸を開始した。 電気の消えた食堂車の中で悲鳴が上がる。それと同時に、彼は外側から車輌後部の窓を勢い良く開いた。 「何だ!」 黒服の一人が銃《じゆう》を持ってやって来る。そこで腕を引き、男が銃を外に突き出すのを待った。 即座に銃口が窓の外に突き出される。不足の事態に慣れていないらしい。なんとマヌケな奴らなのだろう。 クレアはそう思いながら、即座に銃口を掴《つか》んで手前側に引き寄せた。 「うぉ……」 黒服の体を引き倒し、そのまま黒服の腕に掴《つか》み直す。彼は腕一本で相手の体制を『崩し』ながら、物|凄《すご》い勢いで下に引いた。 バランスを崩した男が列車の下に投げ出される。確実に死ぬかどうかは解《わか》らないが、とどめを刺してから落としている暇など無い。 そして彼は、側面に施された装飾の上を走《’》り《’》ぬ《’》け《’》た《’》。 僅《わず》かな突出を生み出すその装飾の上を、身を屈めながら列車の前方に向けて。 体が側面から離れそうになる度に左手を伸ばし、窓枠を掴んで無理矢理引き戻して行った。走る、走る、走る。夢想を無理矢理実現させる事で、クレアはその悪夢を現実に出現させた。 うなされるべきは、もう一人の黒服。 音もなく列車の側面を走る男。彼の姿を違くから見れば、列車の横を宙に浮いて走っている ように見えたことだろう。乗客は暗闇《くらやみ》の中、月明かりに照らされて外を走る『赤い影』を目撃した。それを見て、客車内の悲鳴が爆発的に大きくなった。 黒服が自分の横、テーブルの間にある窓を開けた時はもう遅い。 クレアは既にそこまで辿《たど》りついており、黒服が銃を向けるよりも早くその腕を掴んでいた。 「喝采《かつさい》してくれ、初めてやって初めて出来た。……努力したんだよ。なあ?」 黒服の身体を大きく引き寄せ、耳元で小さく呟いた。そして恐怖に慄《おのの》く黒服を、何の躊躇《ためら》いも無く列車の外に投げ落としてしまった。 クレアは車輌《しやりよう》の下に戻ると、配電盤まで素早く戻ってレバーを入れた。 そのまま再び窓に戻って様子を見ると、先刻とは違う黒服がいた。 「ゴキブリみたいにポコポコと……」 半分|果《あき》れながら、彼はその内の一人を連結器で始末した。もう一人には姿を見られたようで、一等客室の方に逃げられてしまった。 ——問題はないか。奴《やつ》らの注意が俺《おれ》に向いてくれりゃ、乗客に被害はいかないだろう。 彼は小さく頷《うなず》くと、そのまま後部車輌に戻っていった。 もうすぐ、機関車輌への合図の時間なのだ。          ⇔ ——あの男は何処《どこ》だ。 シャーネは、車掌《しやしよう》室の屋根の上で全神経を集中させていた。 貨物室のあたりでラッドを見失った彼女は、屋根の上に戻って周囲を見渡している。 ——あの男は危険だ、今すぐに始末しなければ。でなければ、あの男は私の最大の障害になる。同時に、ヒューイにとっても大きな障害となるかもしれない。 根拠は無いが、半ば確信めいたものを感じて赤|斑《まだら》の白服を探す。闇雲《やみくも》に動いても見つからないと判断した彼女は、再び屋根の上から全車両を見渡す事にしたのだが——。 目的は、向こうから現れた。 実に自然に、友達に会うような表情で。 「よぉ」 やけにニヤニヤしたラッドの顔を見て、シャーネは更に確信を深めた。やはりこいつだけは始末しておかなければならないと。 相手の正体も解《わか》らぬままに、シャーネの中に被害|妄想《もうそう》とも取れる想いが広がっていく。そしてそれは、あながち妄想だというわけでもなかった。 「元気にしてたか、俺の子猫ちゃんよぉ?俺がいなくて寂しかったかい?」 嫌《いや》らしい笑いを浮かべるラッドに対し、シャーネは無言のまナイフを抜いた。 どうやら相手はライフルを持っていないようだ。シャーネはそれを確認すると、そのまま姿勢を低くして駆《か》け出そうとした。 「つれねえなあ、シャーネちゃんよぉ?」 「!」 シャーネの動きが止まる。——何故《なぜ》この男は、私の名前を知っているのか。 彼女の動揺を目にして、ラッドは満足そうに頷《うなず》いて見せた。 「お前の事なら何でも知ってるさぁ。お前が他《ほか》の皆に嫌われてるって事とか、お前も他の皆を嫌ってるって事とか、お前がヒューイ・ラフォレット様とやらの一番のお気に入りで、お前もヒューイとかいう奴《やつ》の狂信者なんだってなあ」 意味の無い事をつらつらと並べ立てる。シャーネはそれ以上聞きたくないとばかりに、再び姿勢を低くする。 「で、お前のヒューイ様とやらは、不死身なんだってなぁ?」 再びシャーネの足が止まる。ラッドはその状況を楽しんでいるようだ。全《すべ》てを知っている上で、相手が動き始めたところにクリティカルな一言を浴びせ掛ける。 シャーネはこれ以上相手の言う事は聞くまいと考えた。姿勢を三度低くして、そのままラッドの方に突進を開始する。この男が何を知っていようと、確実に今殺しておかねばならない。 恐ろしいほど低い体勢から、ラッドの足を狙《ねら》ってナイフで切りつけようとした。 だが、ラッドは何を思ったか、自分もシャーネと同じぐらいに姿勢を低くして、こちらに突進して来る。 しかも、その口では相変わらず軽口を叩《たた》き続けている。 「いやでもさ、ちょっとがっかりしてんのよ俺《おれ》よぉ」 予想外のラッドの動きに、シャーネが一瞬迷いを見せた。その分、ナイフを前に出すのが一瞬だけ遅れる。 「お前ってさあ」 ラッドの声が遠ざかる。シャーネの視界には、突然ラッドの体が吹き飛んだように見えた。 同時に、顎《あご》に激しい衝撃《しようげき》が走る。 ラッドは彼女のナイフが届く距離まであえて踏み込み、そこから一気にサマーソルトの動きを見せたのだ。体勢を低くした状態から一気に後方宙返りを行い、その際に足の爪先《つまさき》でシャーネの顎を思い切り蹴《け》り上げたのだ。 限界まで低くしていた彼女の身体《からだ》は一気に叩《たた》き上げられ、車輌《しやりよう》の後方にゴロゴロと転がっていった。最後の一回転は、彼女自身が体勢を立て直すために行ったものだ。 「お前ってさ、あれよ、もっと火星人が獲《と》りついてるとかそんな感じでイカレてるのかと思ったらよお、ただ単に恋に恋して狂信者めいているだけなんだってえ?思春期のガキだよ手前《てめえ》はよお。ああ、実際思春期を過ぎた頃かぁ?お前よお、そのヒューイって奴に騙《だま》されてるだけなんじゃねえのか?ん?」 その言葉で、完全にシャーネのスイッチが入った。彼女はヒューイの事を恋人た思った事は無い。そう思えるならばそれが一番良かったのかもしれないが、彼女はヒューイの娘《むすめ》なのだ。 彼女は心の中それは許されない事だったし、実際彼女は彼を父親として慕《した》ってきた。だが、傍目《はため》に見るとほぼ同い年の男女だ。実際に娘を持つ者が見ればその関係が恋人同士のものではないと解《わか》ったのだろうが、ラッドにシャーネの事を話した黒服は、残念ながら恋人すら居なかった。 シャーネは目を見開き、先ほどよりも更に低く身体《からだ》を倒す。そして、まるで弾丸のような初速《しよそく》でラッドのもとに駆《か》けていった。 「ヒャハハハ、怒ったか?怒ったのか?」 ラッドもシャーネの表情を見て、『ああ、そんな単純なもんじゃねえのかもな』という事には気が付いた。だがそれを訂正する気はさらさら無い。寧《むし》ろ相手が怒っていてくれた方が、動きが予想しやすくなって助かるというものだ。 ラッドはケタケタと笑いながら、今度はその場を一歩も動かない。だが、今度はシャーネは動揺しない。最初に思い描いた通りの軌道で、ラッドの喉《のど》を切り裂《さ》こうとする。体がラッドの直前に達したところで、体勢を思い切り上昇させた。 飛行機が急上昇するような軌道で、シャーネのナイフが風を切る。 その軌道を見越していたラッドは、異常に素早いスウェーでそれを交わした。同時に膝《ひざ》を大きく曲げ、垂直に身体を低くした。そして、がら空きになったボディに拳《こぶし》を叩《たた》き込もうとする。 だが、シャーネの体が大きくしなるのを感じ、咄瑳《とつさ》に横に身体を寄せた。 物|凄《すご》い勢いで、シャーネの足が振り上げられた。先刻ラッドがやったように、宙返り様に蹴りを放とうとしていたのだ。 「甘《あま》いねえ」 ラッドは即座に状況を掴《つか》むと、まだ宙に浮いているシャーネの身体を、思い切り横に蹴りつけた。 ごろごろと再び勢いよく転がりながら、彼女はついに列車の側面に落ちてしまった。 「あれれ?もう終わり?終わり?つまんなくねえ?寂しくねえ?」 その時、シュコン、という小気味いい男が響いて来た。 「なんだぁ?」 ラッドは側面から下を覗《のぞ》き、信じられないものを見た。 シャーネは両手のナイフを壁に突き立てて、列車の側面に留まっていた。そしてそのナイフを交互に抜いては突き刺し、物凄い勢いで壁を登り始めた。 シュコン シュコン シュコン シュコ シュコ コッ コッ 徐々に抜き差しの速度を速めながら、まるで壁を垂直に走るようなスピードで這い上がって来た。 「うおぉ!」 ラッドが避ける間《ま》もなく、シャーネの体が側面からロケットの様に飛び出し、ラッドの横を通り過ぎる。 間一髪《かんいつぱつ》で避《よ》けたつもりだったが、ラッドの右耳に切れ目が入り、血が軽く噴出した。 「悪《わり》い、お前やっば火星人かも。足八本ぐらいあんだろ実は?」 初めて冷や汗を流したラッドは、静かに拳《こぶし》を握って軽い足取りで弾み始める。シャーネもナイフを握り直して、ラッドとの間合いを計り始めた。 そしてその瞬間、異常な現象が起こった。 現在二人が交戦しているのは、最後尾《さいこうび》にある車掌《しやしよう》室と予備貨物室のある車輌《しやりよう》だ。そして、車掌室には死体が二つ転がっているだけのはずだ。にもかかわらず—— 車掌室積のランプが、数回大きく輝いた。 それは、列車に異常が無い事を知らせるランプだったのだが——一体誰がそのランプを点灯させているというのか? 点灯が終わり、二人が沈黙の中を対時《たいじ》する。 何事も起こらない。そう判断したラッドは、相手から冷静さを欠く為に再び言葉を吐《は》き出し始めた。 「シャーネちゃんよぉ、お前さ、黒服の仲間に狙《ねら》われてるって気付いてるかぁ?あいつらよ、ドサクサに紛《まぎ》れてあんたを殺すつもりらしいぜ?」 シャーネは、その言葉には欠片《かけら》も動揺を見せなかった。そんな事は既に気付いていた事だし、こちらとてグース達を始末しようま考えていたのだから。 「お前よぉ、本当はこの作戦反対なんだって?人質《ひとじち》をとったりガキを殺したりするのが嫌《いや》らしいじゃねえか。甘《あま》い奴《やつ》だよなあ?ヒューイって奴がそもそもそういうのを嫌いだったみてえだが、全然話にならねえよなそりゃあよお?黒服どもが裏切りたくなる気持も解《わか》るってもんだぜ、なあ?」 シャーネは無言のままでラッドの言葉を聞き入っている。先刻の事がこたえたのか、感情を高ぶらせないように必死で自分を押さえつけているようだ。 「革命をやるってのに、国を相手にドンパチを仕掛けようってのに、卑怯《ひきよう》な真似《まね》はしたくねえだの一般人は殺したくねえだの、そいつはちょっと甘い夢を見すぎなんじゃないかと思うんだよ俺《おれ》はぁよー。なんだ?そのヒューイって野郎《やろう》は戦争やりながらでも他人の命を気にかけてられるほどに強いってのか?それなら話はまだ解るが、俺にとっちゃー一番嫌いな奴だねえそいつはよぉ!そんな真似は自分が絶対安全だと思ってるから出来る真似だろうが!くそ!なんつーか許せねえ!」 感情を一《ひと》頻《しき》り高ぶらせた後に、ニヤリ、と小さく笑って声を落とした。 「俺が、この列車を降りたら真っ先にやる事を教えてやろうか?」 たっぷりと口を歪《ひず》ませて、相手の体をじっくりといやらしく根《ね》目《め》まわしながら。 「ヒューイ・ラフォレットを殺す」 その単純な脅《おど》し文句に、シャーネの心は一瞬凍りついた。 「おかしいと思ってたんだよなぁ?テロリストってのはよ、もっと自分の命を捨ててるもんかと思ってたんだが、お前の仲間の黒服連中ときたら『自分は絶対に死なない』って感じの緩《ゆる》さに溢《あふ》れてたからよぉ。そりゃそうだよなぁ?この仕事が終わったら、不老《ふろう》不死《ふし》の体が手に入っちまうかもしれねえんだからよぉ」 小刻みなステップを続けながら、テンションと声量を同時にヒートアップさせていく。 「正直言うとよ。手前《てめえ》を殺すのはそんな乗り気ってわけでもねえのよ。思想は緩《ゆる》みきっちゃいるが、手前は自分の命をかけてるっぽい所もあるしな。そこで、俺《おれ》は考えた!お前の絶対的存在である、ヒューイ・ラフォレットを殺してやったほうが面白《おもしろ》えんじゃねえかってな!」 ラッドは不意にステップを止め、シャーネに向かって正面から叫ぶ。とても嬉《うれ》しそうに。とても楽しそうに。シャーネの心を己の言葉で弄《もてあそ》び、それに多大な快感を感じているかのように。 「とにかく殺す。不死身《ふじみ》だろうが殺す。死ななきゃ首と胴を分けてそれぞれ南極と北極に沈めてやるよぉ。お前の目の前でな。死なないから自分が安全だなんて思ってるユルユル野郎《やろう》に、人生の厳しさを嫌《いや》って程教え込んでやるよお。勿論《もちろん》、嫌って言っても止《や》めやしねえけどなぁ?さあどうするよ、シャーネちゃんよぉ!ヒャハハハハハハハ!」 それは実に陳腐《ちんぷ》な文句だったが、ラッドは確実に理解していた。この手の女は陳腐な挑発ほど良く引っ掛かるという事を。 シャーネの体と心に大きな震えが走った。先刻の挑発がエンジンスイッチならば、今回の言葉は起爆装置だ。己の力の全《すべ》てをナイフの刃先に集中させ、ラッド目掛けて走り出そうとする。 しかしその刃先が動かない。 両手に持った刃の先が、何《’》者《’》か《’》の《’》指《’》に《’》挟《’》ま《’》れ《’》て《’》動《’》か《’》な《’》い《’》のだ。彼女はその瞬間まで気がつかなかった。 目の前に、赤い服を纏《まと》った一人の男が立っている事に。だが、そんな事はありえない筈《はず》だった。今、怒りで視界が白くなる寸前まで、確かに眼前にはだれも居なかったのだから。 湧《わ》いて出た。 そんな言葉がぴったりの状況だった。 彼らの前に、その怪物はついに現れたのだ。 赤い悪魔——『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』が。 親指と人差し指でシャーネのナイフを止めながら、赤い影は静かに呟《つぶや》いた。 「車掌《しやしよう》室に穴を開けるな。耳を掠《かす》めただろうが」 ラッドもシャーネも、最初は男が何を言っているのか解《わか》らなかった。少し考えて、男が言っている内容がつかめた。どうやら先刻シャーネがナイフで列車の側面を上った時、丁度《ちようど》その壁の裏側にこの男が居たらしい。 「わかったら、謝《あやま》ること」 赤い影の言葉に、思わずシャーネは頷《うなず》いてしまった。先刻のラッドに対する怒りも忘れ、両手を下げてペコリと頭を下げてしまう。他《ほか》の黒服達がいたら、誰もがその目を疑うだろう。そして、ラッドも目を疑っている一人だった。 「ごめんなさい、ぐらい言えよ」 するとシャーネは、自分の喉《のど》を指差して、その後首を横に振った。どうやら彼女は、なんらかの理由で喋《しやべ》る事が出来ないらしい。 「そりゃすまなかった。御免《ごめん》」 赤い影は素直に謝ると、そのままスタスタと屋根の上を歩き始め、貨物列車との連結部の辺りでくるりと振り返った。 「続けるといい」 こうして——ラッドとシャーネの戦いに、真《ま》っ赤《か》な怪物の存在が割り込んだ。 「生き残った方を、俺《おれ》が殺す」          ⇔ ルーアは殺されたがっていた。何で自分が死にたいかも忘れてしまう程に。自殺をするのも馬鹿《ばか》らしかった彼女は、誰か自分の事を殺してくれる人間を探していた。誰か、自分を楽しんで殺してくれる人を探そうと。最後に、誰かに喜ばれながら死んでいきたい。そう考えていた。 そんな時、ラッドと出会った。彼なら自分を誰よりも楽しんで殺してくれるかもしれない。 「世の中の、お前より生きたがってる奴《やつ》をぜえんぶ殺したらよ、最後にお前を、一生かけてたっぷりと殺しつくしてやる。だからそれまで死なねえで俺についてこい。いいな?」 それがプロポーズの言葉だった。それが彼女を延命させるための詭弁《きべん》などではなく、心の底からそう思っている事を彼女は知っていた。 そして、ラッドはそれを実現させてくれると信じていた。ラッドが誰かを殺そうとしてしくじった事など一度も無かったし、実際彼が誰かに殺されるところなど想像もつかなかった。 あの赤い影を見るまでは。 先刻この部屋の窓を覗《のぞ》いていた赤い影。その影と瞳と視線が交わったのだが、ルーアの心は大きく揺れ動いた。恐怖や恋心の類《たぐい》ではない。それは、莫大《ばくだい》な不安だった。殺される、あの恐ろしい目をした怪物に、ラッドが殺される。ラッドは、あの怪物には勝てない! あの怪物の目の中に湛《たた》えられていた、あのおぞましい輝きの正体に気が付いてしまったから。 殺意。あれは確かに殺意の塊《かたまり》と呼べる目だった。ルーアにはそれに直《す》ぐ気が付いた。何故《なぜ》なら、それは普段見慣れている——ラッドが人を殺す時の目にそっくりだったからだ。違う点が一つあるとするならば、その目に籠《こも》る意志の強さがラッドのそれとは比べ物にならないほど強かったという事だ。 自分たちとは明らかに別の世界の存在だという事を強く感じた。意志の力が人間のそれをはるかに超えている。更に恐ろしい事に、赤い怪物は、結局自分達を殺さずに去ってしまった。 理由は解らないが、あの怪物はあれだけの殺意を目に秘めながら、それを御《ぎよ》する事すら出来るという事だけは解った。 ラッドは人間に対しては無敵だが、相手が怪物では話が別だ。殺される、ラッドが殺される———— 「大丈夫かね、お嬢《じよう》さん」 低い声で我に返る。ここは二等客室の中、自分達の部屋だ。 目の前では、灰色に身を包んだ魔術師《まじゆつし》が男の治療を終えたところだった。 「さっきまでとは違って、随分と生きた目をしているじゃあないか」 「……ぇ?」 消え入りそうな声で聞き返すルーア。彼女はその魔術師の顔を見て、ある事に気が付いた。 ——この人、私と同じだ。死にたがってる—— ルーアが向ける視線の意味を理解したのか、彼は静かに言葉を紡《つむ》ぐ。 「私は、大戦の最中に従軍医として参加していてね。ベルダンの方に行ったんだ。敵も見方も沢山《たくきん》死んでね。ある時気が付いたら、目に見える範囲で生きていたのは、私一人だった」 辛《つら》い思い出に浸るでもなく、淡々と、ただ淡々と話し続ける。 「ああ、これは罰なのかなと思った。私がもっと多くの人を治療していたら、こんな光景には出会わずに済んだのかとなあ。面白《おもしろ》いもので、その後どんな戦場に行っても、大戦が終わるまで私は死ぬ事がなかった。逃げ回っていたという事はないのだがね。どんなに大|怪我《けが》をしても、命だけは助かり続けた」 ルーアには彼の話を、どこか遠い世界の物語のように聞こえていた。男の顔の布が僅《わず》かにずれていて、その下に焼け爛《ただ》れた肉が露出していた。恐らく体中があのような傷で覆《おお》われているのだろう。 「神様の罰だとしたら、自殺して逃げたらもっと重い罰を受けるだろう。だから、私は義務で人を治療するんだよ。生きたがっている人を一人でも多く救えるように。神様が私が死ぬのを許してくれるまでね」 そこまで言って、彼はルーアの顔を見た。 「君は何かやるべき事を見つけたようだ。さっきまでと違って、生きた目をしている。それが恐怖なのか怒りなのか悲しみなのかは解らないが」 その言葉を聞き、ルーアはゆっくりと立ち上がった。 「おいルーア、どこに行くんだ?」 「ちょっと……すぐ戻るから待ってて……」 仲間の白服にそう言って、ルーアは部屋を出て行こうとした。その背中に、灰色の男の生気のない声がかけられる。 「やるべき事が終わったら、また死人に戻るのもいいだろうな。いや、忘れてくれ。自分と同じ目をした人間が居なくなるような気がして、少し寂しかっただけだ……」 医者の言葉を背に受けながら、ルーアはラッドを探しに出かけた。あの医者の言葉は決して人を励ますものではない。人をより不安に突き落とす物言いだ。医者は自分の事だけをつらつらと語っていたはずなのに、どうしてこうも不安になるのだ。まるでこの男は——死神のようだ。 ラッドが最も強いと思ったあの時の勘《かん》は正しかった。それは絶対に疑わない。ただ、ただ、だからこそ今のこの勘も信じられる。戦ってはいけない、逆らってはいけない、出会ってはいけない。あの赤い影は、必ずラッドにとって不吉をもたらすだろうから。 ルーアは先刻の赤い男の目を思い出しながら、列車の中を静かに走って行った。          ⇔ ラッドとシャーネは、突然の乱入者に動く事が出来なかった。まだ空は薄暗く、男の表情などは良く解《わか》らない。ただ一つハッキリと解るのは。その男は全身を赤く染めた服を着ているという事だ。ラッドの場合は『赤|斑《まだら》』だが、その男の場合は『真《ま》っ赤《か》』のシンプルな一言で説明がつく。 長い沈黙を破り、ラッドが最初に口を開く。 「誰だよ、お前」 その口調にはラッドらしからぬ警戒の色が強く龍《こ》められており、心なしか体の構えがシャーネよりも赤い男に向き直り初めている。 「気にするな」 赤い男の答えもシンプルだった。しかし、ラッドにはこの男についてある確信があった。 ——デューンを殺《や》ったのは、恐らくこいつだ。 それを確信した理由は、彼の着ている服を見た事だった。血で赤く染まってはいるが、このデザインは間違い無くこの列車の車掌《しやしよう》のものだ。それに、ここまで返り血を浴びるには、そうとう汚《きたな》い殺し方をする必要があるはずだ。それらの条件が重なり合って、彼が仲間を殺した犯人だとラッドに確信させている。 デューンを殺したこの車掌が何者なのかは知らないが、とにかく|ま《’》と《’》も《’》じ《’》ゃ《’》な《’》い《’》という事だけは一目瞭然《いちもくりようぜん》だった。 まともじゃない男の口から、やはりどこかしら奇妙な言葉が放たれる。 「俺《おれ》の事は、喋《しやべ》る空気だとでも思ってくれ」 「ほぉ、そうかい」 人を食った答えに、ラッドも人を食った返答を施す事にした。だが、仲間の敵であるこの男に対する殺意は、既に最大限のものとなっている。 仇《かたき》を殺す事は決定していた。懐《ふところ》から血に染まったスローイングナイフを取り出し、何の躊躇《ためら》いもなく赤い男に投げつけた。血で淀《よど》んだ銀の棒状が、赤い男の喉下《のどした》に向けて直進する。 「空気なら、喋《しやべ》るんじゃねえーよ!」 「手厳しいな」 投げられたナイフをパシリと掴《つか》みながら、赤い男——クレアは静かに微笑《ほほえ》んだ。 一瞬の沈黙。 「ちょっと待て。今、物|凄《すご》く不自然な事しなかったか?」 「そんな事はないさ。ほら、丁度《ちようど》柄《つか》の所を握ったから手は切れてない。自然だろう?」 クックッと笑いながら、ラッドを挑発するような言葉を返した。これにより、ラッドの殺意ゲージが限界を超えた。相手が何をやろうが知った事ではない。——一番気に入らないのはこの化け物の目だ。こいつの目は確かにおっかねえ。普通の奴《やつ》ならまともに目も合わせられねえだろう。だが、それ以上に許せねえ!何だよこいつは、この野郎《やろう》はよ!さっき女のナイフを受け止めた時にも、俺がナイフを投げた瞬間にも、ちっとも目の色を変えやしねえ。俺の一番嫌いな臭《にお》いだ。戦争をラジオや新聞だけで知ってて適当な事を抜かすエセ平和主義者と同じだ。部下にだけ危《あぶ》ねえ橋を渡らせて、何もしねえ自分が一番金をかっさらうマフィアのボスと同じだ。さっきのガキの格好をした奴と同じ……いや、こいつの場合はそれ以上だ! ラッドの目がカッと見開かれ、そのままクレアに向かって走り出す。 身をかがめながら懐に入り込み、拳《こぶし》の連撃を叩《たた》き込もうとした。 最初の一撃がヒットしようかというその瞬間、クレアは通常ではありえない避《さ》け方をした。 「なんだぁ?」 ラッドの目の前から、クレアの体が遠ざかった。彼は両手を大きく広げながら、体を後ろに大きく反《そ》らした。いや、反らしたというレベルではない。彼はそのまま後ろに倒れこんだのだ。 彼の足元で、既に列車の屋根は途切れてしまっているというのにだ。 ラッドは相手が線路に身を投げたのだと思った。支える場所を持たないクレアの体は、当然ながらそのまま下に消えて行った。 だが、そう思ったのは一瞬の事だった。消えていったはずのクレアの上半身が、列車の側面から跳《は》ね返って来たのだ。 クレアは膝《ひざ》から下だけを屋根に引っ掛けて、そのまま逆さまになった体を側面に張り付かせていたのだ。そして装飾の一部に手をかけ、勢い良く上半身を上に跳ね上げた。 まるでバネのついた人形のような動きで、クレアの上半身が屋根の上に戻ってきた。そしてそのまま、ラッドの顎《あご》に頭突《ずつ》きを食らわせる。 ラッドは思わず数歩後ろに後退したが、すぐさま反撃に転じようとする。 ところが、その視界の隅に銀色を捉《とら》え、慌《あわ》ててその場にしゃがみ込んだ。その直後、彼の頭上をナイフの刃《やいば》が掠《かす》め、髪の毛が何本か風に舞った。 「やってくれたなこのアマ!」 ラッドは数歩後ろに下がり、ナイフを繰り出してきたシャーネの方を睨《にら》みつける。そのシャーネは既に赤い影を見ておらず、ラッドを殺すことだけに自分の集中力を絞《しぼ》っていた。 だが、その集中はクレアの声であっさりと途切れさせられた。のんびりしてはいるものの、聞き流すにはあまりに威圧感の大きい声だ。 「お前さ、シャーネって呼ばれてたっけ?さっきそいつが言ってた事って本当か?」 クレアは特に感情を表さないまま、クレアに静かに問いただしていた。 「えーと、ほら。本当はこの作戦に反対だっただの、人はあまり殺したくないだの。ヒューイって奴《やつ》もそういうのが嫌いだのってやつだ」 目の前の赤い影の急な質問に、彼女は答えるべきかどうか迷った。無視してもいいが、その質問を無視する事は自分とヒューイの存在を否定する事になるような気がして、シャーネはその問いに大きく頷《うなず》いた。 「そうか、ならいいや。なんだったらよ、お前にちょっと加勢してやろうか?」 「はぁ?」 突然の申し出に、ラッドは呆《ほう》けた声を漏《も》らし、シャーネも目を白黒させている。 「ちょっと待てよこらこの赤い怪物よぉ!それってちょっとおかしくねえか!良くわからねえが、黒服と俺らの仲間を殺して回ってるのはお前だろうがよ!!」 ——そうだが、何か問題があるのか?」 「なんだそりゃ!だったらなんで急にこいつに加勢するとか言い出してんだよ!俺の仲間は殺しやがったくせに!」 当然といえば当然であるラッドの叫びに、クレアは何の躊躇《ためら》いもなくこう答えた。 「は?だってよ、さっきのお前の話聞くと……実はいい奴っぽいじゃん。その女」 その答えには、流石《さすが》にラッドも暫《しばら》く沈黙せざるを得なかった。 「お前が叫んでるの聞いてたんだがなぁ。まあ、大事な人を助けるために仕方なくっていうんだ、見るからに頭のネジが飛んでそうなお前よりは共感が持てるし、なんか可哀想《かわいそう》だし」 そこでようやく、ラッドの体に怒りが湧《わ》き上がってきた。 「ふざけんな化け物。なんだぁ?つまり手前《てめえ》はこの女にちょっと同情しちまったって事かぁ?何だ手前、何処《どこ》まで脳みそ緩《ゆる》いんだよコラ!ハっ!どんなに恐ろしい怪物かと思ったらよ!なんてこたあねえ!反吐《へど》が出るような偽善者《ぎぜんしや》様じゃねえか!手前はあれか?戦場で銃《じゆう》をもった子供《ガキ》が向かってきたら殺さないで同情して助けちまうとでもいうのかよ?手前が言ってるのはそういう事だろこのボケ!」 正論であるはずのその叫びにも、クレアは全く動揺しない。 「助けるけど、何か?」 「は?」 「まあ、そのガキがムカツクかどうかってのにもよるがね」 クレアは『何を当たり前なことを』というような表情で、通常ではありえない考えをラッドに対して淡々と語り続ける。 「そういう同情とかってのは、やっば余裕《よゆう》を持ってるからこそできる事だと思うわけよ。その点|俺《おれ》は大丈夫だ。だって俺、例えばそのシャーネって女が後ろから切りつけてきたとしてもよ、俺は全然余裕で受け止められるし。そのガキどもが俺が同情してる間にマシンガンをぶっぱなしたとしても、俺なら余裕で避《よ》けられるし。まあ、同情するなとか言って怒るかもしれんが、そんなのは俺の知ったことか」 ラッドに対して両手を大きく広げて見せながら、どこまでも身勝手な事を言い放つ。 「殺《や》らなければ殺られる。それを俺には必要の無い言葉だ。何故なら、俺は絶対に殺されないからだ。覚えておけ——」 一瞬の間を置いて、口元を禍々《まがまが》しく歪《ひず》ませながら言葉を続けた。 「——甘《あま》さや同情ってのは、強者だけが持ちえる特権だ。そして——俺は、強者だ」 想像以上だった。ラッドにとってこの男は想像を遙《はる》かに越える殺意を抱《いだ》かせる。 既にテンションは一回りして最低ラインに下がっている。ラッドは憎しみを搾《しぼ》り出すような声で、目の前の赤い影に告げた。 「てめえは……あれか……?本当に自分が死なねえとでも思ってやがるのか……?」 そして、想像通りの答えが帰ってきた。 「無論だ。何故なら、世界は俺の物だからな」 あまりの発言に絶句するラッド達を前に、クレアは淡々と語り続ける。 「この世界は俺のものだ。ひょっとしたら、この世界ってのは俺が見てる長い長い夢の中じゃないのかとさえ思ってる。だってそうだろ?ひょっとしたらお前らは幻かもしれないし、俺にはお前が本当に存在しているのか証明が出来ない。つまり、この世界は俺中心って事だと思ったわけだ。俺が『できる』と信じた事は絶対に出来るし、多分俺が寿命で死にそうな時、不老《ふろう》不死《ふし》の薬とかが出来るに違いないさ。もしくは今見てる夢から覚めて、また別の夢に行くんだろう。つまり、俺の存在は永遠ってわけだ」 「……なんでだ?なんで、っんな手前《てめえ》勝手な事が考えられる!」 「俺は想像力が乏《とぼ》しくてな。自分が死んだ後の事が全く想像できない。考えられないんだよ。『無』って奴が全く想像できないんだ。よく、『死んだ後は永遠の闇《やみ》だ』とか言うけどよ。無って事はその闇《やみ》すらも感じられなくなるわけだろ?それが想像できない。自分が|無《’》く《’》な《’》る《’》ってのが想像できねえんだよ。だから、あれだ。つまりこの世界に完全な『無』なんてもんは存在しねえ。でも、俺《おれ》以外の奴《やつ》は死んだら消えちまう。その結論から逆算してって、こういう結論に達したわけだが。つまり、この世でなくならないのは俺だけ。だから、この世は俺のものだ。他《ほか》の奴らは、俺の見てる夢のようなものに過ぎないってな」 ラッドはもはや反論する気も起きない。こいつは完全にイカれている。そう判断した。 「一言で言うとあれだ、俺が出来ると信じた事に限り、俺に不可能は無いって事だ」 その言業に再びテンションを上げ始め、ラッドは笑い出しながら言葉を紡《つむ》いだ。 「なるほど、それが手前《てめえ》がその女を助けようとする理由かぁ?そんなんじゃ助けられた方も迷惑だよなぁ。そうだろ?」 シャーネに同意を求めるが、彼女はただ黙ってクレアを見つめているだけだ。 その様子を見て、クレアは小さな溜息《ためいき》をつきながら言葉を返した。 「俺がその女の味方につこうってのにはもう一つ理由がある。乗客に手を出さないなら、もうその女を殺す理由は無いが……お前ら白服は別だ。トニーを殺した罪は償《つぐな》って貰《もら》う」 「卜ニー……?」 誰の事なのか一瞬|解《わか》らなかったが、ラッドは少し考えて気が付いた。その名前は確か、ヂューンが車掌《しやしよう》服を奪う為に始末した車掌の名前だ。車掌服の名札に書いてあったのを思い出した。 「……そいつは矛盾《むじゆん》だぜ、怪物。他人は夢みてえなもんなんだろ?だったらそんなに気にかける事は無いんじゃねえか?」 「例えトニーが架空の存在だったとしても、それに友情や恩義を抱《いだ》いて何が悪い?俺の夢を壊《こわ》す悪夢は恨《うら》みを籠《こ》めて消してやるさ」 「ああ言えばこう言う……ああ、心底ムカツク野郎《やろう》だ!死ね!死んで償え!そんなわけのわからねえ感情でデューンを、俺の仲間をぶち殺しやがったのか!」 もはや余裕《よゆう》も消え果てたのか、ラッドは会話を紡ぎながら、勢いに任せて赤い怪物に突っ込んで行った。そのまま、素人《しろうと》の目では追えない速度のジャブを数発繰り出した。 「最初にトニーを殺したのはお前らだろ」 当然の突っ込みを入れながら、クレアはその攻勢をかわして見せた。通常ではありえない方法で。 「なにぁ!?」 ラッドの表情が驚愕《きようがく》に見開かれる。マシンガンのようなジャブの応酬《おうしゆう》に対し、クレアはそのままラッドの方に飛んできたのだ。文字通り、列車の屋根を蹴《け》り上げて宙を跳《と》んで来たのだ。 そのままラッドの腕を両手で掴《つか》み、そのまま勢いを利用してラッドの上に倒立の形で留まった。 ラッドは倒れないようにするのに精一杯で、クレアはその一瞬の隙《すき》をついてラッドの背後に着地する。 「糞《くそ》がッ!」 振り向き様《ざま》に拳《こぶし》を放とうとしたが、乾いた破裂《はれつ》音が響き、ラッドの右耳の一部が吹き飛んだ。 「!?」 一瞬の痛みに、呻《うめ》き声を上げる暇すら無かった。 見ると、目の前には拳銃《けんじゆう》を握ったクレアが立っていた。煙を噴《ふ》く銃口《じゆうこう》をラッドの眉間《みけん》に向けたまま、静かにその口を開く。 「屈辱《くつじよく》か?」 ラッドの答えを待つ事もなく、クレアは冷徹に言葉を紡《つむ》ぐ。 「俺《おれ》は別に、素手《すで》が最強だと思うほど格闘に自信を持ってるわけじゃないんでな。やっぱり剣は素手よりも、銃《じゆう》は剣よりも強いと思っている。状況にもよるがね」 クレアは銃を使った仕事もよく行うので、銃の威力と扱いに関しては常人以上に知っているつもりだ。そして、彼は今まで拳銃を持っていたにも関わらず、それを使わなかったという事になる。 「俺が銃を使えば、お前は一瞬で死ぬ。だが使わなかった。お前如き素手で十分だと思ったからだ。屈辱《くつじよく》か?」 何を思ったのか、クレアはせっかく構えた銃を懐《ふところ》に戻してしまった。 「今もわざと耳を撃った。屈辱か?」 ラッドは相手の意図が解《わか》らず、ただ言葉どおりの屈辱を感じ続けていた。 「感じるだけの屈辱を味わいながら死ね。それがトニーへの……いや、トニーを失った事に対する俺の世界への償《つぐな》いだ」 確かに、屈辱だった。これ以上の屈辱は無かった。今、ラッドは欲望とも計算とも全く別の次元で、純粋にこの男を殺してやりたいと思っていた。何の快感も利益もいらない。ただ、この目の前の歪《ゆが》んだ独裁者に無を与えてやれさえすればそれでいい。 そう思うと、自然と笑いがこみ上げて来た。 「ハハ………ヒハハ……じゃあよ、自称世界の支配者様よぉ……俺をこれからどうやってぶっ殺す気だ?ああ、手前《てめえ》の思い通りにはぜってー世の中いかねえって事を証明してやるよ、手前をブチ殺して、嫌《いや》っていう程『無』とやらを味あわせてやろうじゃあねえかぁ!」 その言葉にクレアは少し考えこむと、不意に連結部の方を見た。そして何かを思いついた様にニヤリと笑うと、ラッドに向かってこう言った。 「その前に聞いておくが、お前と一緒にいたあの白ドレスの女、あれはお前の彼女か?」 唐突《とうとつ》な質問に面《めん》食らったが、ラッドは眉《まゆ》をしかめながらもはっきりと答えを返した。 「婚約者だ。手前、人の彼女にまでケチつける気か?」 「いや……お前みたいなクズ野郎《やろう》でも彼女がいるのかと思ってな」 「俺みてえな殺人狂が純粋な恋をしちゃいけねえってのか?」 実際は『純粋な恋』とは程遠い歪《ゆが》んだ愛情だったが、ラッドは何の躊躇《ためら》いも無く言い切った。 状況に全くそぐわない会話を続けながらも、ラッドの殺気は確実に上昇している。もうすぐクレアの放つ殺気に追いつこうかという勢いだ。それでもクレアは動じる事なく、先刻の質問に対する答えをだした。 「そうか、それを聞いて確信した。お前がこの後どうなるかをな」 顔を楽しそうに歪《ゆが》めるクレア。その顔は既に車掌《しやしよう》の時からは想像できない程の凶気《きようき》に満ちており、『邪悪《じやあく》』という表現が最も適切な笑みを浮かべていた。 「お前はね、自分から飛び降りるよ。この列車をな」 言葉を紡《つむ》ぎながら、軽く視線を横に逸《そ》らす。ラッドはその視線の先を無意識のうちに追いかける。視線が完全に横に向いた、その時だった。ラッドは連結部の間から女性の上半身が出ている事に気づき、露骨《ろこつ》に表情を裏返す。その女は、白いドレスを纏《まと》う女だった。ラッドの良く知る女、ラッドの最も愛する女、ラッドの最も殺したい女。          ⇔ 二等客室の中で、灰色|魔術師《まじゆつし》がジャックの治療を続けている。 その作業をなし崩しに手伝いながら、白服の男が気になっている事を尋ねた。 「あのよ、その鞄《かばん》の中に入ってる本はなんだ?表紙の単語すら読めないんだが、もしかして魔術書《まじゆつしよ》かなんかか?」 彼の頭の中では、未だに目の前の男が魔法使いに見えているようだ。 「医学書だよ。まあ、魔術書と大差ないのかもしれんがね。ドイツ語で書かれているから読めないのは当然だろうとも」 自分の学の無さが馬鹿《ばか》にされたような錯覚を受けたが、白服は特に気にせずに質問を続けた。 「それでさ……あんたが体中の怪我《けが》を隠してそんな格好をしてんのは解《わか》った。だがよ、なんで灰色なんだ?医者なら普通は白とかじゃねえのか?」 「白は光を反射しすぎるのでな。手術とかの時には逆に向いていないからだ。まあ、個人的に灰色が好きだというのが大きいのかもしれん。灰色というのは、世界に溶《と》け込む為に最も適した色だと思っている。溶け込むというより、隠れると言った方がいいかもしれんな」 「そういや、ルーアも昔そんな事を言ってたな。さっき出て行った、あの女だけどよ」 灰色魔術師はそれを聞いて、彼女に感じた事を静かに呟《つぶや》き始めた。 「あの娘《むすめ》は私と似ている所がある。死にたがってるという点だ。だが、私とは根本的に違う部分がある。あの娘の目は、戦場でたまに見かけるタイプの輩《やから》と良く似ているよ。自分では死にたがっているが、誰か大事な思い人《ひと》がある目だ。逆に、誰かから必要とされている目だ。義務だけで怪我《けが》を治してる私と比べ、この世にとって何倍も価値のある人間だよ、彼女は」 魔術師の言っている事の意味はよく解らなかったが、白服の男はとりあえず一言だけ返事を返した。 「医者のあんたに価値がないなら、俺《おれ》らは確実にマイナスじゃねえかよ。まあ、事実だから仕方ないけどな」 白服はそう呟きながら、——ああ、俺はなんでこんな馬鹿なことやってんだろ。列車|強盗《ごうとう》なんてよ。ラッドの馬鹿も、ルーアが好きなんだったらこんな事に巻き込むんじゃねえよなぁ——と、今更考えても仕方の無い事を自問自答し続けた。          ⇔ 連結部の屋根に登り、ようやくラッドの姿を見つける事が出来たルーア。だが、既にラッドは赤い怪物と対時《たいじ》している最中であった。 ——ようやく見つけた。急がなくては、伝えなくては、ラッドがあの怪物に殺されてしまうその前に。逃げなくては、この列車から、あの怪物から一歩でも遠くに。ラッドと共に、いや、せめてラッドだけでも。 彼女にとってラッドは必要な存在だ。自分を殺してくれる存在というだけではない。その点を除いても、今の彼女にはラッドの存在しない世界は考えられなかった。生と死は隣合わせで、彼が自分を殺す事によって彼は生の喜びを得るのだろう。彼と自分の間にだけ存在する、一方通行の輪廻《りんね》。その妄想《もうそう》を膨《ふく》らませ続けた彼女にとって、ラッドの死はこの世界自体が崩れ、消えてしまうのと同じ事だった。クレアとは別の意味で、彼女も自分自身の『世界』を信望する狂信者であり、殉教《じゆんきよう》者でもあった。クレアと違う所は、彼女の思うその世界はラッドという大きな器に取り込まれているという事だった。 「ルーア!馬鹿《ばか》お前休んでろっつったろうがぁ!」 ラッドの顔に冷や汗が浮かぶ。 ——くそ、よりによって、よりによって何であの化け物が一番近くにいるんだよ!畜生《ちくしよう》!ラッドの表情の意味など一瞬でクレアは理解した。彼は誰に使おうか迷っていたものを懐《ふところ》から取り出し、面白《おもしろ》そうに周囲の風景を観察し始めた。懐から取り出したそれは、一見たんなるロープに見えたが、どうやらその両端が輪になるように結んでいるようだ。カウボーイの投げ縄《なわ》を二つ合わせたような、そんなロープだ。 「さて、言ったよな?お前をこの列車から飛び降りさせてみせるって」 「ルーアッ!早くそこを降りて逃げろ!」 「…! ………!」 ルーアは必死で何かを叫んでいるが、ここからでは何を言っているのか良く聞き取る事が出来ない。ラッドは舌打ちすると、そのまま赤い怪物の方へ向けて走り出した。 ラッドが物|凄《すご》い勢いで近づいていっているというのに、赤い影はその場を一歩も動かない。ただひたすらに手にもった長いロープを解きほぐしている。これはチャンスだ。この世が手前《てめえ》のものかなんだか知らねえが、だったらその世界ごと終《しま》いにしてくれらぁ。 あと一歩でパンチが届く。その時ようやく、ルーアが何を叫んでいるのが聞こえて来た。 「——駄目《だめ》!そいつと戦っちゃだめ!殺される!早く逃げて——」 馬鹿《ばか》野郎《やろう》、もう遅ぇよ。だったら俺《おれ》のことなんか気にしねえでさっさと逃げろよボケが。 ルーアの勘《かん》はよく当たる。勘と言うよりも、眼力《がんりき》が優れていると言った方がいいのかもしれない。今までもラッドは彼女の勘に助けられた事が多々あったし、彼女の眼力は自分の勘よりも余程信頼している。 だが、今は関係無い。 目の前の赤い男がヤバイという事は、彼女に言われずとも百も承知だ。 戦えば殺される事も解《わか》ってる。 ——それがどうした。おれはこいつをぶち殺す。殺されようが、殺す。 ラッドのパンチが届くその瞬間、赤い影はニヤリと笑ってロープを投げた。一方の輪はループの首に。もう一方の輪は列車の横に向かって投げ——そのまま、激しく移動する景色の中に引っ掛かった。それは、郵便を回収するためのフックつきの柱だった。クレアは周囲の景色を見ながら、まさにこの瞬間のタイミングを計っていたのだ。二つの輪の間で、それはまるでのた打ち回る蛇《へび》の様だった。長い筈《はず》のロープが互いに引っ張られて、両端の間の弛《ゆる》みが勢い良く無くなっていった。 「このッ………腐《くさ》れ外道《げどう》がぁぁっ!」 ラッドは、赤い怪物に当たりかけていた拳《こだし》をそのまま素通りさせた。 殴《なぐ》っていたら間《ま》に合わない。 ここで飛ばねば間に合わない。 今すぐルーアを掴《つか》まなければ間に合わない——— ラッドの右手が輪になったロープの根元を、その左手はルーアの体を力強く抱《かか》えこんだ。次の瞬間、ロープが延びきり、ラッドとルーアの体が宙に浮く。ラッドの右手に信じられないぐらいの衝撃《しようげき》と摩擦《まさつ》が走る。しかし手は離せない。もしも離してしまったら、次の瞬間にはルーアの首が鶏《にわとり》のように締められる。それ以前に首の骨が抜けてしまうだろう。摩擦熱で手が焼け肉が剥《は》がれ始めても、ラッドは決してその手を離さない。 カの奔流《ほんりゆう》に呑《の》まれながら、ラッドは自分の左手の薬指が吹っ飛ぶのを確認した。彼は落下しながらもルーアの首から縄《なわ》を外そうとしたのだが、どうやら変に巻き込まれてしまったらしい。 ——ああ、こいつはとんだエンゲージリングだぜ。 そんな事を考えている間に、ラッドの右手は血で滑《すべ》り始めてしまっていた。一瞬の内にロープが締まり、ルーアの首をろうと襲い掛かる。 ラッドが声にならぬ叫びを上げたその瞬間、縄は彼女の首から綺麗にほどけ落ちた。 ——は? 彼女の首に引っ掛けられた方の縄は、強く引くと解けるようになっている偽結びが施されていたのだ。奇術などに使われる、素人《しろうと》でも出来る結び方。その事実と同時に、ラッドは自分が嵌《は》められた事に気が付いた。 「あの野郎《やろう》おぁーッッッッ!」 眼球が抜け落ちん程の勢いで目を見開くが、全《すべ》ては後の祭であった。彼が右手で結び目の部分を強く握ってしまったが故に、彼もルーアも列車から飛び降りるハメとなってしまったのだ。 二人の体は抱《だ》き合ったまま宙を舞い、縄が離れるのと同時に、地面へ向けて緩《ゆる》やかに落下していった。自由速度の落下とはいえ、地面とすれ違うスピードは異常に速い。 見ると、ルーアがラッドの体の下になろうとしてもがいている。地面との衝撃《しようげき》から、少しでもラッドを守ろうとしているのだろう。 ——馬鹿野郎《ばかやろう》。分けのわかんねえ事してんじゃねえよ。そんな生きた目をするな、似合わねえったりゃありゃしねえ。 今すぐ殺したくなるだろうが、馬ー鹿。 そんな事を考えながら、彼の意識は徐々に薄れていった。 意識が完全に落ちようかというその瞬間、彼はルーアの肩越しに迫る物を見た。 それは縄《なわ》が引っ掛けられたのとは別の——線路脇に何本も立つ支柱の内の一本だった。このまま行けば、間違い無くルーアの背が激突する事になるだろう。 ——車掌《しやしよう》。これも手前《てめえ》の『都合のいい世界』ってわけか?ふざけんな。世の中がそうそう手前の都合通りにはいかねえって事を思い知らせてやる—— ラッドは閉じかけていた目を見開き、雄叫《おたけ》びを上げる余力すらもその拳《こぶし》に注《そそ》ぎ込む。ラッドは熱い沈黙を続けたまま、形にすらなっていない左ストレートを繰り出した。 ルーアの肩越しに、迫り来る支柱へと向かって。 薬指が無い事を気にもとめず、固く握られたその拳は迫り来る支柱へと吸い込まれて行く。 そして、爆発的な衝撃《しようげき》が迸《ほとばし》った。 その光景を見ていた赤い影は、静かにその目を細め、前方にいるシャーネに問い掛けた。 「男の方は判《わか》らないが、女は無事だな。守りきったみたいだよ、ただの屑《くず》かと思ったら大したもんだ、そう思わないか?」 シャーネには答える事ができなかった。目の前の男の事がわからない。敵にするにはあまりにも不気味《ぶきみ》すぎるし、味方ではとうていありえない。シャーネは息を呑《の》んだ。この男と戦えば自分は死ぬ。そんな予感が次から次へと心の中に溢《あふ》れ出てくる。 「さて」 男の目がこちらをぐるりと向いた。 「生き残った方を俺《おれ》が殺すって約束だったが——あいつの生死が不明になった。どうすればいいと思う?」 クレアは何もかもを見透《みす》かしたような顔で、シャーネの瞳を見つめ返した。全《すべ》ての光を吸い込むような恐ろしい光で、シャーネの体が全て吸い込まれてしまうようだ。 「ああ、言っておくが、俺の事を極《ごく》悪人だなんて思わないでくれよ?もしもあいつが助けに向かわないようなら、縄は自動的に解けるようになってたんだ。いや、本当に」 これからどうしたものかと考えながら、クレアは関係の無い話題を切り出した。 トニーの仇《かたき》である白服の主格が居なくなった今、やはり黒服の連中の始末に向かうべきだろう。さし当たって、目の前にいる彼女をどうにかしなければならない事は確かだった。 「そうそう。さっき言ってたヒューイって奴《やつ》は、お前にとって……個人的に大事な奴なのか?」 唐突な問いだったが、シャーネは静かに首を縦に振った。 「恋人か?」 首を横に振った。 「家族か?」 縦《たて》に振った。 「父親か?」 縦に振った。 「ヒューイってのは、お前らのボスか?」 縦に振った。 「ところでお前はどうしたい?俺と殺し合いをしたいか、それとも——」 逃げるか、と言おうとしたが、ふと思い立つ事があって別の言葉に差し替えた。 「それとも、お前の家族を殺そうとする奴——さっきの白服を殺してやろうか?」 その問いに、シャーネの目が見開かれる。 「あの白服に『お前に加勢する』って言い切っちまった以上、ここでお前を殺すのも見捨てるのも後味悪い。俺は殺し屋だ。依頼するか、ここで俺と殺し合うか選べ。ちなみにここで俺を殺しておかないと、後でヒューイを殺せという依頼を受けるかもしれないぞ」 その言葉にシャーネの心が大きく揺らぐ。この男が解《わか》らない。この男を信用していいものなのだろうか。ただ一つだけハッキリしている事は、この男が他《ほか》の何者よりも強いであろうという事。それだけは確かな事実だった。 この男は何処《どこ》まで知っているのだろう。何時《いつ》から白服の男との会話を聞いていたのだろう。 シャーネの心は大きく揺らぐが、次の問いが彼女の心を一際《ひときわ》激しく揺さぶった。 「あ、そうだ。そのヒューイって奴《やつ》……不死身《ふじみ》だって話は本当なのか?」 (!) ——この男も、この男もそれが目当てなのだろうか。 私は何を迷っていたのだろう。もうずっと昔に決めた事ではないか。ヒューイを、父を守って来たのは何時だって私一人だったではないか。今までも、これからも。 他人を信用してはならない。所詮《しよせん》他人は何処までも他人としての存在でしかないのだから。 敵は殺す。敵だけを殺す。ヒューイを守るのは私一人だけで十分だ。誰も近づけない。危険な奴は誰も誰も誰も。 所詮、ヒューイの家族は自分だけなのだから—— シャーネの目が冷たく輝き始める。 異常を感じ取ったのか、クレアは小首を傾げながら口を開いた。 「どうした?恐い顔をして。……ひょっとしてあれか?俺《おれ》がヒューイを脅《おど》して不老不死《ふろうふし》を横取りするかもしれない……とか考えてるのか?」 図星《ずぼし》だった。彼女の瞳の冷気が僅《わず》かに揺らぐ。動揺を抑えながらも、純粋な彼女は馬鹿《ばか》正直にもその問いに頷《うなず》いてしまった。 クレアはその様子を見てニコリと笑い、彼女への質問を楽しそうに繰り返した。 「お前の家族は、そのヒューイって奴だけなのか?」 先刻と同じような質問だったが、シャーネは素直に答える事にした。今はただ、何とかこの男の隙《すき》を窺《うかが》う事が先決だと判断したのだ。 「そうか、それでお前は、ヒューイを守るのに信用できるのは家族である自分だけだ——そう思っているから俺が信用できないわけだな?」 他人を信用できない理由はそれだけではなかったが、外れというわけでもないので肯定する。 「でも、何としてもヒューイって奴は守りたい。そうだろ?」 考える必要もない質問だった。だが、次の言葉を聞いた隣間、シャーネの頭に空白が訪れた。 「そこで俺は考えたんだが。俺がお前と結婚すれば、俺はそのヒューイって奴の息子《むすこ》って事になる。そうすれば俺もヒューイの家族って事になるから、それなら問題はなくなるってわけだ」 一瞬、相手が何を言っているのか解らなかった。考えれば考えるほど、シャーネの頭の中にには疑問符と感嘆符が満ち溢《あふ》れて行く。 シャーネの答えを確認しようともせず、クレアはのうのうと話を続ける。 「さて、二択《にたく》が三択になったぞ。ここで俺《おれ》と殺し合うか、俺に仕事を依頼して懐疑《かいぎ》を抱《いだ》いたままで仲間になるか、それとも俺と結婚して一緒にそのヒューイって奴《やつ》を守るか。この三択だ。理解できるか?」 さっぱり理解できない。この男は一体何を考えているのだろう? 理解できない理解できない。この男は強さも人格も含めて、シャーネが今まで出会ったどんな人物とも違う人間だ。いや、もしかしたらやはり人間ではなく怪物なのかもしれない。 「いや、本当は結婚か殺し合いかの二択でも良かったんだが、それだとなんか脅迫《きようはく》みたいだし、男としてどうかと思ったんでな。そんな事をしたらキースの兄貴に絶交されかねないしな」 シャーネはフラフラと立ち上がるが、この後どう行動すればいいのかさっぱり解《わか》らなかった。 ただ、呆けたような表情でクレアの話に聞き入っている。 「あ、ひょっとして愛の無い結婚は嫌《いや》だとか思ってるのか?大丈夫、愛するから。なんだったら俺がそのヒューイって奴の養子になるってのでも構わないぞ?そうすると兄妹になるわけか。姉なのか妹なのか、お前の年が問題だな」 そういう問題では無いと思いながらも、シャーネはこの男にどう返事をしたものか迷い続けていた。自分が今一番やらねばならない事は、ヒューイの救出作戦の実行だ。だが、それを行うにはこの男が邪魔《じやま》だ。しかし、この男には恐らく……いや、絶対に勝てないだろう。 シャーネの脳が煮詰まりきるより先に、クレアが|ぐ《’》い《’》と顔を近づけて来た。 「まあ、結婚の話は冗談と受け取って貰っても構わないが、俺は本気だとだけ言っておこう」 そのまま、シャーネの瞳を真《ま》っ直《す》ぐに見つめて来る。まるで顔の目の部分に深い穴が開いており、その奥にいる悪魔が彼女の魂《たましい》を手招いているかの様に。 シャーネの背筋に何か得たいの知れない感覚が走るが、抵抗も出来ぬままに、今はただクレアの言葉に耳を傾ける他《ほか》はなかった。 「俺はお前の仲間と違って、お前の事を裏切ったりはしない」 静かに、ただ静かに言葉を紡《つむ》ぐ。 「裏切る必要が無いからだ。強者は、何よりも強い者は、決して仲間を裏切る事はしない。その行為に意味が無いからだ。そして、俺は強者だ。解るな?」 列車を取り巻く風と車輪の轟音《ごうおん》、それでもその言葉は力強くシャーネの耳に響き渡る。 「お前が心配しているような、ヒューイから不死身《ふじみ》の秘密を奪うような真似《まね》もしない。くれるってんなら貰《もら》っとくが、無理矢理奪う真似はしない。必要も無い」 そして、先刻から何度となく繰り返していた言葉を口にする。 「俺は、|不《’》死《’》の《’》力《’》が《’》無《’》か《’》ろ《’》う《’》が《’》絶《’》対《’》に《’》死《’》な《’》な《’》い《’》。俺がそう信じているからだ。だから、お前も黙って俺を信じろ」 彼の瞳は相変わらずの凶光《きようこう》を放っていたが、その表情はどこか——微笑《ほほえ》んでいる様に見えた。 「俺が、決して死なない男だと」 暫《しばら》く話を聞いていた後、シャーネは何らかの答えを出す事を決意したようだ。 シャーネの首が動こうとした時、その体に鋭い衝撃《しようげき》が走った。肩に赤い穴が穿《うが》たれ、彼女の体が大きく傾いた。 「何?」 クレアの耳には、それと同時に銃声《じゆうせい》が飛び込んでいた。 ——狙撃《そげき》か。面白《おもしろ》い真似《まね》を。 彼はシャーネの傷が致命傷ではない事を確認すると、そのまま銃声の方向に向き直る。 十分『見える』距離だ。クレアはそう確信すると、狙撃手を先に始末しておくことにした。 「もうすぐ川に出る。警察に掴《つか》まる気が無いならそこから飛び降りろ。俺《おれ》への答えは屋根に刻んで置いてくれ。どの道お前は他《ほか》の黒服達に殺されるようだし、これ以上この列車に拘《こだわ》る意味もないだろう?」そう言って、遠くに見える狙撃手の指先に目を向けた。彼は心で「見える」と信じる。世界を支配するそのうぬぼれが、クレアの神経の全てを視力に注ぎ込む。そして、クレアはスパイクの指先を見極めた。もともと車掌《しやしよう》には視力の良さも求められる職業だ。狙撃も行う手前、表裏どちらの職業にせよ絶対的な視力が求められる。彼はそれを手に入れるために様々な努力をしたのだが、結局それも『才能」の一言ぞ片付けられてしまったのだが。 「お前は俺と似た目をしてるな。感情の矛先《ほこさき》を何処《どこ》に向けたらいいのか解《わか》らなくて、全部自分の中に溜《た》め込んでる。そんな目だ」 どこか照れた様に笑うと、 「俺がこの世でどうにもならないのは、バカでマヌケな俺自身だけだ」 だからクレアは、様々な矛盾《むじゆん》や悲劇より生じる殺意を、全《すべ》て自分自身へと向けている。その瞳から迸《ほとばし》る殺意を、全て己の内に封じ込めながら生きているのだ。 「ま、何はともあれ、お前は俺の耳に傷をつけたんだ。偶然とは言えな。世界の中心である俺に、お前が存在するって証《あかし》を残したんだ。だから、お前も夢を見る側に——世界を支配する側に廻ってみろよ。——俺は、歓迎する」 彼は壁越しに付けられた傷をさすりながら、列車の前方に向け、全力で駆《か》け出す準備をする。 「投げたければ、後ろからナイフを投げつけてもいいぞ。避《よ》けるから」 その言葉を最後に、男は異常なスピードで屋根の上を駆け抜け始め、やがて列車の側面へと消えて行ってしまった。 スパイクの銃弾《じゆうだん》を避けながら進む小さな影を見送った後、シャーネは暫《しばら》く何かを考え込んでいたが、やがて意を決するように頷《うなず》いた。 彼女は足につけてあった小さなナイフを取り出すと、それで言葉を刻み始める。 列車の屋根に、赤い怪物に対する自分の答えを。 そして列車が川にさしかかった事を確かめると、シャーネは静かにその身を躍《おど》らせた。          ⇔ 列車の極秘《ごくひ》貨物である、チェスの用意した大量の爆薬。それを狙って列車に乗り込んだジャグジーとその仲間達。 その一人である褐色《かつしよく》の大男——ドニーは、計画の地点である川に差し掛かったことを確認すると、爆弾の詰まった箱を鉄橋の下へと投げ出し始める。深い川の上に箱の機密性と緩衝材《かんしようざい》は完璧だ。これで爆発したりするようならば初めから使い物になるまい。単純な彼らは単純にそう考えて、なんの迷いも無く爆弾の詰まった箱をぽいぽいと放り投げる。 殆《ほとん》ど投げ終わったその瞬間、ドニーは妙なものを見た。搬入口《はんにゆうぐち》の上、つまりこの列車の屋根の上から、黒いドレスを着た女が飛び降りたような気がしたのだ。 「うあ?女?……ぬぁ、ありえない。気のせいだ」 しかしドニーは特に考える事をせずに、そのまま箱を投げる事に専念し続けた。          ⇔ レイチェルの手によって逃げ出す事に成功した、貨物|強盗《ごうとう》の一員であるニース達。彼女らが一等客室で威嚇《いかく》爆破を行っていた頃、ようやく機関|車輌《しやりよう》の乗務員が異変に気付き始めた。 「おい……なんじゃあ、今の爆発はよッ!」 「なんか列車が揺れたのお」 年老いた兄弟の機関士コンビ。これまでの銃声《じゆうせい》には耳が遠くて気がつかなかったが、流石《さすが》にニースの威嚇爆破の音は耳に届いていた。 立て続けに爆弾の音が響き渡る。 「ちょっくら外に出て見てきてみい!」 「ワシが?嫌《いや》だのぉ」 弟の方が外に出ようとすると、ドアの外から声が聞こえた。 「爺《じい》さん方、俺《おれ》っす」 それは、二人の知る若い車掌《しやしよう》の声だった。先ほどラッド達に見せていたのとは全く正反対の、優しい目をした車掌としての顔だった。 「なんじゃぁ、クレアかよ。炭水車をわざわざ乗り越えて来たんかい?」 「何でこんなとこにおるんかの。今の爆発はなんなんか。列車を止めた方がいいんかの?」 そう言ってる間にも、爆発の音は続いている。 「いや、爺さん方。逆っす、|絶《’》対《’》に《’》列《’》車《’》を《’》止《’》め《’》な《’》い《’》で《’》下《’》さ《’》い《’》」 「なにぃ?どういうこっちゃあ」 スパイクを落とした後、念のために機関室の様子を見にきたらこの爆音だ。クレアはこの幸運を自分自身に感謝した。 あの爆発音では車掌室《しやしようしつ》からの合図も役に立たない。このままでは直《す》ぐに列車を止められてしまうだろう。そこでクレアは、ドアを挟《はさ》んで小さな演技を始めることにした。 「列車強盗っす。今、馬で追われて砲撃されてます!」 「なんじやと?」 「どこかのう!」 「どっかに隠れながら移動してるみたいっす!ここからじゃよく解《わか》りませんが、もうすぐ越える川があるでしょう、その鉄橋を通り過ぎれば奴《やつ》らも追ってきませんよ。ですから安心して列車を走らせて下さい」 あの爆発の正体は彼にも解らなかったが、取りあえずその場をごまかす事にした。 こんなところで列車を止めるわけにはいかないのだ。 「うぬむぅ、解った!全力で走るから任せんしゃい!」 「お前さんはどうするんかのお」 「まだ客に被害は出てないっすから、上手《うま》く避難させてきます」 「そうかあ、気いつけてなあ」 「ありがとう御座《ござ》います。それじゃあ」 老人達に一度も顔を見せずにクレアは機関|車輌《しやりよう》を後にした。 本当は「今までありがとう御座いました」と言いたかったのだが、この状態では仕方が無い。もう二度と会わないかもしれない知り合いに、クレアは無言で別れを告げた。 ——例え自分が世界の中心だろうが、やっば頭のあがんねえ人間ってのは沢山《たくさん》いるもんだ。くそ、これで|N Y《ニユーヨーク》に遅れたら、俺《おれ》は永遠にガンドールの兄弟に頭があがらねえ。 そして列車はひた走る。          ⇔ アイザック達はどういう道筋を彷徨《さまよ》ったのか、現在は三等車輌の中をうろちょろしていた。 「うーん、見つからないなあ。白い服の奴《やつ》らも『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』も」 「消失したね!まるでミステリーみたい!」 ジャグジーが黒服の一人を捕まえてる時と、ラッドが拷問《ごうもん》を行っている時にそれぞれの部屋の前を通った為、結局アイザック達は黒服と出会う事はなかったのだ。 「ねえねえアイザック、貨物室の中は調べなくていいの?」 「大丈夫さ、怪物は後ろから徐々に人を食っていくんだぞ。あの死体があった貨物室より後ろにはいないって事さ!」 「じゃあじゃあ、何で車掌《しやしよう》室をあんなに調べてたの?」 「ふふふ、犯人は必ず現場に戻るっていうだろう」 「わあ凄《すご》い!アイザック、ホウムズみたい!」 脈絡《みやくらく》の無い推理を並べ立てながら、彼らは三等車輌の中に入って行った。 一つ一つの部屋を念入りに調べて行く。それぞれの部屋で人が縛《しば》られたりしていたので、縄《なわ》を解いてやりながら進んで行った。 「ああ、ありがとうございます!一体何が起こってるんですか!」 助け出された乗客達はみな同じ事を言い、アイザックもその度に同じ答えを返す。 「なんか銃撃《じゆうげき》戦とかやってて、怪物が人を食って歩いてる」 その言葉に人々は物|凄《すご》く微妙な目をするが、誰も外に出て行こうとはしなかった。 思い当たる事があったのだ。近くの部屋から暫《しばら》くの間、物凄い子供の悲鳴が上がり続けていたのだ。そして、ガラスが割れるような音がしてからその音は一切聞こえなくなった。怪物にせよ黒服の強盗《ごうとう》にせよ、うかつに外に出る気にはどうしてもならなかったのだという。 ミリアはそれを聞いて、「どうしよう、もしかしてメリーちゃん達じゃ」と不安げに呟《つぶや》いた。 アイザック達がそうして三等|車輌《しやりよう》の中を進んで行くと、次の部屋の扉が開けっ放しになっている事に気が付いた。 もしかして怪物が?二人は息を殺して唾《つば》を呑《の》み、非常に仰々《ぎようぎよう》しい忍び足で扉に近付いた。 扉からそっと覗《のぞ》くと.そこには二人の黒服がいた。二人で窓の外を眺め、何かをこそこそと話している。それを見て、アイザック達もこそこそと話し始めた。 「ははーん、きっとあいつらが子供を苛《いじ》めてるに違いない!」 「苛めっ子だね!」 「ガンマンとしてはそんな悪い奴《やつ》らを許してはならない!そうだろミリア!」 「ナイスアウトローだね1」 二人は一年前のとある事件の際、マシンガンを持った相手を三人もKOした経験がある。単純な彼らは、その分だけ銃《じゆう》に対する恐怖は克服済みなのだろう。 もっとも、その際に使った手は『車で撥《は》ねる』というものだったのだが。 「そこで俺《おれ》は、奴らに決闘を申し込む!」 「駄目《だめ》だよ!死んじゃうかもしれないよ!」 流石《さすが》にそれはミリアが止めに入る。だが、アイザックの決意は無駄に固かった。 「死ぬと解《わか》っていてもやらなきゃいけない事もある。それがサムライの生き方よ!」 「うう、アイザック——。じゃあ、私も決闘する!」 「しかし、どうやってあのガキをあんな所まで運んだんだ?」 「列車の外を歩くしか方法はねえんじゃ……」 黒服達がチェスの体を眺めて会話をしていると、後頭部に何かがぶつけられた。 「なんっ………グハッ……ゲホガッ……バッギャヒッ——ヒッ……っ……ヒぃ」 二人の周囲に白い粉が飛び、それを大きく吸い込んだ。アイザック達が強盗《ごうとう》の際にいつも使う、石灰と胡椒《こしよう》をブレンドした特殊な粉だ。今回は決闘にちなんで、粉を手袋に詰めて相手に投げつけていた。黒服達はそれをもろに吸い込んでしまい、息が出来ない目が見えない。銃を撃つなどもっての他《ほか》だ。今はただただ顔を塞《ふさ》ぐ手が欲しい、銃など握っていられない。 理性では銃を離してはいけない事を知りながら、耐え切れずにマシンガンを取り落としてしまった。 石灰が窓からの風に散って、ようやく体が楽になり始める。そんな彼らを待っていたのは、自分達の銃を構えた二人のアウトローだった。 彼らは銃《じゆう》を構え、無法極まる台詞《せりふ》を吐《は》いた。 「これからお前達に決闘を申し込む!」 「コインが落ちたら始まりだね!」 機関銃《きかんしゆう》を握った二人が、丸腰相手に決闘を申し込む。 「ミリア、コインが無いそ」 「本当だ!ねえ、コイン持ってる?」 ミリアが黒服達に声をかけるが、アイザックがそれを慌《あわ》てて否定した。 「駄目《だめ》だミリア!こいつらにコインを借りてみろ!俺《おれ》達が勝ったら、借りた金を踏み倒す事になるじゃないか!そんな事はガンマンとしてのプライドが許さない!」 「それもそうだね!じゃあ、別のもので音を鳴らそう!」 少し考えた後に、アイザックが静かに口を開いた。 「よし、じゃあこのマシンガンの銃声《じゆうせい》が決闘の合図ということで」 「それなら完壁だね!」 この二人の馬鹿《ばか》は本気だと悟《さと》り、黒服の二人は泣いて謝《あやま》り許しを請《こ》った。 黒服達を隣の三等客室に閉じ込めると、アイザック達は再びこの部屋に戻って来た。 「さて、子供はどこだ?」 「あいつら、窓のところで何か喋《しやべ》ってたよ」 「そうか!さては子供を逆さ釣《づ》りに……」 「酷《ひど》い!」 アイザック達は慌てて窓を覗《のぎ》き込み、そして言葉を失った。そこにあったモノは、アイザックの友達だった。正確には、アイザック達が一方的に友達になったと思い込んでいる、出会ったばかりの少年だった。車輪の傍《かたわ》らに引っかかっているその小柄な体の正体は——右手と両足を失い、変わり果てた姿となったチェスワフ・メイエルの姿であった。          ⇔ ——全く、世の中は何が幸いするか解《わか》らない。警察やマフィアに掴《つか》まった時の為の準備が、まさかこんな列車の上で役に立とうとは。 レイチェルはギザギザに砥《と》がれた己の爪《つめ》を見ながら、今を生き続けている幸運に感謝した。 二等|車輌《しやりょう》と三等車輌の間の連結部に腰を下ろし、車輌の間から見える空を仰《あお》ぎ見る。 黒服の集団に捕まったレイチェルは、見張りがいなくなった隙《すき》をついて縄《なわ》を切断。窓から列車の下を伝って脱出する事に成功していた。一緒に縛られていた眼帯《がんたい》眼鏡《めがね》の女とその連れの縄も解いてやったが、今ごろ無事でいるであろうか?残念な事に、今のレイチェルには他人を気遣う事はできても、それを助けに行くだけの余裕《よゆう》は持ち合わせていなかった。 「うッ……」 彼女の足を激痛が襲う。親子を助けた際に狙撃《そげき》された傷だ。太腿《ふともも》の外側を裂《さ》いたその弾丸は、レイチェルの身体能力に確実なダメージを与えている。とりあえずの止血《しけつ》処理はしてあるものの、半端《はんぱ》ではない痛みが彼女を襲い続けている。 医者でも見つからない以上、暫《しばら》くは安静にしているしか道はあるまい。レイチェルは大きく息をつくと、連結部の扉を開けて三等|車輌《しやりよう》の中に入って行った。どこか敵のいない部屋を見つけて、体を横たわらせなくては—— 痛みと共に焦燥《しようそう》感が増す彼女の背に、その声はあまりにも唐突《とうとつ》に浴びせかけられた。 「う、う、動くな!この蛆虫《うじむし》めがあ!」 その声に身を翻《ひるがえ》すと、そこには見覚えのある顔があった。 ブタのような面《つら》をした、ちょび髭《ひげ》の男——食堂車にいた、レイチェルにとっての仇敵《きゆうてき》のような存在がそこにいた。 非常に厄介《やつかい》な事に、チョピ髭の手には一丁《いつちよう》のライフルが握られていた。 「む、なんだ貴様……女か?」 男の目にどこか蔑《さげす》みの色が含まれるが、その銃口《じゆうこう》をレイチェルから逸《そ》らそうとはしなかった。 レイチェルは知る由《よし》も無かったが、チョビ髭の持っているライフルは白服の集団の物だった。 シャーネの手によって殺された変態の男が持っていたものだが、ちょび髭は清掃具入れの前に転がる男の死体からこの銃《じゆう》を手に入れたのだ。シャーネはいちいち倒した相手の銃を奪うという行為には及んでいなかったのだ。その結果として、このチョピ髭の手に。 「ふん、貴様もあの白服の連中の仲間だな、そうなんだな!わしには解《わか》るぞ、この状況の中で列車の中を堂々と歩いてる奴《やつ》は皆悪党だ!」 ある意味正しい事を言いながら、チョビ髭はジリジリとレイチェルに歩み寄って来る。 彼はアイザックやヨウン達に食堂車を追い出された後、絶望的な恐怖の中を彷徨《さまよ》い続けた。そして理性が限界に達し様かというその時に、彼は武器を手に入れてしまったのだ。もともとの性格も大分影響しているのだろうが、彼は歪《ゆが》んだ考えに蝕《むしば》まれ始めていた。誰かを、自分を殺そうとする『誰か』を殺さねばならないという強迫観念に囚《とら》われてしまったのだ。先刻から車輌に身を顰《ひそ》め、自分が殺せそうな相手を探し続けた。白服の恐ろしい男や褐色《かつしよく》の巨漢などはスルーし、白服の女は声をかける前に走り去ってしまった。 今、彼はようやく自分の心を落ち着ける為の生賛《いけにえ》を見つけたのだ。例えレイチェルが白服の仲間ではないと理解しても、今さら簡単に銃口を下ろす事は出来ないだろう。 「わしには解る。今までわしの考えが間違っていた事はない。その確信の元でここまで人生を成功させたのだ、それを今更貴様らの様なクズの為に終わらせてたまるものか!」 レイチェルは悲しくなって虚空《こくう》を仰《あお》いだ。 ——何と皮肉な事だろう。ようやくこの男を殴《なぐ》る理由が出来たのに、相手の手には銃《じゆう》。私の足には生々《なまなま》しい傷跡が。 絶対に相手を怒らせてはならない状況だったが、それでもレイチェルは皮肉を言わざるを得なかった。 「間違いが無かった?それじゃ、あの時起こった事故も間違いではなかったというの?」 「……?」 「10年前のあの列車事故は、予定されていた事だとでも?技師達の意見を無視しておいて、いざ事が起こったら原因は全《すべ》て技師のせい?それが、そんなことが正しいとでも?本気で、本気で思ってるの?」 その言葉に、チョビ髭《ひげ》の目から狂気の色が薄《うす》れる。その代わりに表れた物は、理性を伴った、明確な殺意。 「貴様。何故《なぜ》それを知っている?何者だ?」 普段ならば、この事実を突きつけられた所で敗者の戯言《ざれごと》と放っておく事も出来ただろう。今更一人の人間が騒いだところで、事実が明らかになるわけでもない。しかし、誰もが冷静な判断を出来なくなっているこの状況で、それはあまりにも危険な発言だった。 「今更わしの、我々の恥部を持ち出すとはな。何者かは知らんが、やはり貴様は白服の連中の仲間だ。そういう事にしておくとしよう」 ライフルの銃口《じゆうこう》が、ゆっくりとレイチェルの眉間《みけん》に向けられる。 その絶望的な状況の中で、何故《なぜ》か彼女の顔には寂しげな笑みが浮かんでいた。 「ああ、やっぱりこれは報いだったのかもね。無賃乗車を続けて来た、列車の誇りを足蹴《あしげ》にし続けた報いだ」 「無賃乗車?フン、クズはクズらしい罪を重ねるものだな」 「だから、せめて最後は、列車の手によって殺されたい。列車の仕事に全《すべ》てをかける奴《やつ》に、列車の代行として——」 「?命 |乞《ご》いか?どちらにせよ、私は列車の仕事に従事しているものだ、権利は十分に——」 チョビ髭はそう言いながら狙《ねら》いを済ませ、引鉄《ひきがね》にゆっくりと指をかける。 だが、レイチェルはそんなチョビ髭の行為も言葉も無視し、力強く叫んだ。 「だから、だから早く私を殺せ! このヒゲ豚《ぶた》が私を殺すよりも早く! 殺せ! 私を殺せ!赤い化け物——いや——車掌《しやしよう》!」 その言葉の意味が解《わか》らず、チョビ髭は一瞬引鉄を引くのを躊躇《ためら》った。次の瞬間、チョビ髭の両肩が物|凄《すご》い音を立てて軋《きし》み始めた。同時に、味わった事の無い痛みが脳髄《のうずい》を直撃する。肩を見なくても何が起こっているのかは理解できた。何者かが自分の背後から自分の肩を掴《つか》み上げているのだ。痛みに悲鳴を上げながら何とか瞳を己の肩口に向けると、そこには通常ではありえない程に肩に減《め》り込んだ指があった。 反動で思わず銃《じゆう》を取り落としてしまう。一歩間違えれば引鉄《ひきがね》を引いていてもおかしくない勢いだったが、レイチェルにとって運の良い事に、ライフルは火を噴《ふ》くこと無く床に転がった。 「がうあッ……グアァッ、アッアアッ、ウボゥッ!」 痛みを通り越して吐《は》き気が襲いかかっているようだ。チョビ髭《ひげ》の目からは涙がボロボロと零《こぼ》れ落ち、口と鼻から胃液のような物が垂れ始めている。 そして、彼の両肩が鈍《にぶ》い音を立ててガクンと揺れた。両肩の関節が、握力だけで無理矢理|外《はず》されたのだ。 「ッッッッッッッッッッッッ!」 悲鳴を上げる事すら叶《かな》わず、チョビ髭は一瞬で意識を失ってしまった。まるでヒューズの切れた電化製品のように、傍《はた》から見た者にはパチンという音すら聞こえてもおかしくないような意識の失い方だった。 顔面を床につけて倒れるその体の横に、一人の男が佇《たたず》んだ。 真《ま》っ赤《か》な返り血を浴びた車掌《しやしよう》が、ただ、静かにチョビ髭を見下ろしていた。 ——こういう奴《やつ》がいるから、俺《おれ》らみたいな下《した》っ端《ぱ》の車掌とかが苦労するんだよな。 クレアは運転手をなんとか誤魔化《ごまか》した後、再び後部|車輌《しやりよう》に向かっていた。窓から食堂車の様子を窺《うかが》うと、黒服達の生き残りが乗客に縛《しば》り上げられていた。通路を見ると白服の何人かも同じように縛り上げられており、どうやらクレアの知らない間に事態は解決に向かっているようだった。 とりあえず、一般の乗客に死者は出なかったのだろうか? それを確認する為に、クレアはもう一度車掌室まで戻ろうとしていた。その最中に、ライフルを持った怪しい髭デブと、先刻の無賃乗車の女を発見したのだ。 最初は連結部の影から様子を窺っていたが、だんだんと髭デブに対してムカっ腹が立って来たので、とりあえず無賃乗車の女を助けてやる事にしたのだ。どうやら間一髪で引鉄を引く寸前に間に合ったらしい。自分のタイミングの良さに口笛を吹きながら、クレアはこのチョビ髭をどうするか考えていた。 ——取り合えず列車から落としてみようか。運が良ければ生き残るって事で。 何気に恐ろしい事を考えながら、クレアは男の体を持ち上げようと近づいた。 その背中に、震えながらも凛《りん》と響く声がかけられた。 「や……やめろ!」 男言葉の高音に振り向いて見れば、そこにはライフルを構えた無賃乗車の女が立っていた。 「その男から離れて!その男を殺したら駄目《だめ》!」 彼女の言葉を聞いて、クレアは不思議そうに肩を竦《すぼ》めた。 「あんたを殺そうとしてた奴だぞ。それに安心しろ。お前をどうこうする気はない」 もしかして、この女も俺《おれ》と同じような性格なのだろうか?自分が絶対に死なないという自信があるのだろうか?それならば彼女が自分の敵を助けようとする矛盾《むじゆん》も頷《うなず》ける。クレアはふとそう考えたが、冷や汗を流す彼女の表情を見るに、どうやらそれは違うようだ。 「変わった奴《やつ》だな。自分を殺せと言ったり他人を殺すなと言ったり」 「その男だけじゃない。もう、この列車の中でこれ以上誰も殺すな!殺すなら私を殺して、それで最後にして!」 強い口調で言い放つ作業着の女に対し、クレアは少し真面目《まじめ》な顔をして尋ねた。 「何故《なぜ》だ?どうしてそこまでする必要がある?」 人間離れした目の輝きのままで、クレアがレイチェルの目を覗《のぞ》き込んだ。レイチェルはその目を恐れこそはしたが、決して怯《ひる》む事無く言葉を返す。 「私の親父《おやじ》は列車の技師だった。親父も、私も列車を愛してる、大好きだ!ひょっとしたら、人間なんかよりもよっぽどね!」 ——ひょっとしてその親父って、今ヒゲ豚《ぶた》と話してた技師の事か? クレアはそう思ったが、口に出すことはせずに、クレアの言葉を静かに受け入れた。 「だから、だからだからだから!汚《けが》すな!この列車を造った人達の、この列車の誇りを汚すな!この列車を、線路を、人を、これ以上誰かの血で汚すなぁッ!」 気がつくと、レイチェルは涙を流していた。クレアはその様子を黙って見つめていたが、や がて静かに口を開いた。 「誇りを汚すな、か。無賃乗車の奴《やつ》にそんな事を言われるとは驚きだ」 「ああ、そうだよ。だから、あんたと私は同罪だ」 その言葉を聞いて、クレアは口を大きく歪《ゆが》ませた。実に楽しそうな表情になって、無賃乗車の女に対して背を向けた。 「殺人と無賃乗車が同罪ときたか。全く変わった女だなぁオイ」 そこでようやく、レイチェルも気が付いた。怪物だと思っていた目の前の男が、自分とあまり変わらない『人間』であるという事に。普通に会話が出来た時点で気が付くべきだったのだが、彼女の心にそんな余裕《よゆう》は欠片《かけら》もなかった。今、目の前の男が笑った事によって、ようやくその僅《わず》かな落ち着きを取り戻す事が出来たのだ。 「全く、お前にはさっきから思い出させてもらってばかりだ。俺《おれ》が車掌《しやしよう》だって事をな」 小さく呟《つぶや》いて、クレアは自らの懐《ふところ》に手を伸ばした。そして、半分以上が赤くそまった小さな紙片を取り出した。 「切符だ、取って置け。乗員名簿にお前の名前はないが、車掌のミスだろうって言い張れ。反対する奴は誰もいないからよ。あ、俺が車掌だって事は一応黙っててくれ。な」 その紙片を床にひらひらと舞わせると、そのまま車輌《しやりよう》の奥へと立ち去ろうとする。 「まったく、お前も結構いい女だよ。もしあのナイフ娘《むすめ》に逢ってなきゃ、俺はお前の方に惚《ほ》れてたかもなあ。ま、縁があったらまた逢えるだろ」 わけの解《わか》らない事を言いながら、その背はレイチェルからどんどん遠ざかって行く。 「ちょ、ちょっと待ってよ」 「安心しろって、もう誰も殺す必要は無くなったみたいだからな。俺が殺してたのは黒服と白服の連中だけだ。乗客にゃ手を出してねえよ。それじゃ本末転倒《ほんまつてんとう》だからな」 「嘘《うそ》だ!だってさっき、あの子供を——」 レイチェルはそこまで言って気が付いた。確か、あの子供が括《くく》りつけらているのは——丁度《ちようど》、この車輌の下あたりだ。 彼女が言葉を止めたのと同時に、クレアも思い出したように声を上げた。 「あー、そうだそうだ。忘れてたよ。いや、あいつに関しては少し複薙でね。ああもう面倒だ、本人に直接聞いてくれ」 「何を言ってるの!?あの子はもうとっくに……」 レイチェルの言葉を無視して、手近な扉をガラリと開く。先刻チェスに対して拷問《ごうもん》を行った部屋のドアだ。そして、その中に見えた光景は—— 「わああん!アイザック、大丈夫?」 そこに見えた光景は、真《ま》っ赤《か》なドレスの女が窓から身を半分以上乗り出している姿だった。          ⇔ 車輪の脇、冷たい風が体を蝕《むしば》むその中で、チェスはぼんやりと思考を巡らせていた。 一体自分はどうなってしまうのだろう。 あの赤い怪物から受けた痛みは、自分にとって全く未知のものだった。痛みの代わりに恐怖を与えられたりもした。長メスで眼球を少しずつ削《けず》られたり、動脈を切られ、その傷口に思い切り息を吹き込まれたり、静脈で同じ事をやられたりした。それはまだ序《じよ》の口《くち》だったな。その後に受けた痛みは……思い出せない。ただ、自分が恐ろしい痛みを受けた記憶があるだけで、その内容についてはどうしても思い出す事が出来ない。思い出したくないのではない、本当に思い出せないのだ。 私はもう発狂しているのかもしれないな。だとすれば、まさしくあの怪物の目論見《もくろみ》通りではないか。ああ、これは報《むく》いなのか、食堂車の人間を殺そうとした事に対する報いなのか、それとも自分が過去に犯した悪事とやらに対する報いなのか。もうどちらでも構わない。いっそのことこのまま楽になってしまいたい。 考えてみればそれは無理なのだったな。ああ、そうか、これは今まで生きて来た報いか、世界の道理に逆らい、不死《ふし》を得た事に対する報いなのだろうか。幸せになる為に不老《ふろう》不死を得たのに、その結果がこれか。まずは裏切りを与えられ、次に孤独を与えられ、最後に恐怖を与えられた。ああ、これは報いか、仲間を喰ってしまった事に対する報いなのか—— 上がまた騒がしくなった。今度は一体誰だろう。奴《やつ》が戻って来たのだろうか。あの赤い怪物が。私はまたあの『痛み』の続きを受けるのだろう。——嫌《いや》だ。 嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だそれだけは絶対に嫌だ嫌だ嫌だやめてくれ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ助けてくれだれでもいい助けてくれ様だ嫌だ嫌だ———— 痛みはやって来なかった。私は少し落ち着きを取り戻し、再び静寂に身を委《ゆだ》ねた。上にいる連中が何者でもいい。痛みを受けなくて済むのなら誰でも構わない。 目を開けるのも億劫《おつくう》だ。目を開いたら、今までの事が全て夢だったとすればどんなに素晴らしい事だろうか。そうだ、きっとこれは夢だ。目を覚ませばまだあの帆船《ほぶね》の中に違いない。 きっと『奴』がやった事も夢で、セラードが仲間を喰ったのも夢で—— 頬《ほお》に、何か水滴が当たる。 ああ、やはりこれは夢だったんだ。波|飛沫《しぶき》が頬に当たった。さあ、目を開けるとしよう、ボクはまだ子供なんだ、早起きしないと他《ほか》のみんなに馬鹿《ばか》にされちゃうよ—— 目を開くと、そこは現実だった。絶望する間《ま》も無く、上から声が降って来た。 「ああッ!ミリア、目を開けたぞ!生きてる!まだ生きてるよ!」 そこに見えたのは、あの変なガンマンの顔だった。窓から思い切り身を乗り出して、ほぼ逆さまになってこっちの顔を覗《のぞ》いている。窓|枠《わく》に引っかいたのか、手からだらだらと血を流している。どうやらその一滴《いつてき》がチェスの頬《ほお》に触れたようだ。 なんなのだろう、この男は一体何をしようとしているのだろう。 「待ってろ、今助けるからな!」 助ける?誰を?まさか私を? 何をやっているのだ、なぜそんな無駄《むだ》な事をするのだ。会ったばかりの人間に何故《なぜ》そんな事をする必要があるのだ?解《わか》らない、さっぱり解らない。私が旧来の友や家族、恋人だというのならばまだ解る。だが、今日会ったばかりの他人を何故—— なんだ?頬についたこいつの血が——震えている? どういう事だ?これは、違う。風や列車の振動などとは全く違う動きだ。血液の一滴一滴が、まるで己の意志を持った生物のように動いている。まさか、まさか、そんな! ああ、なんということだ、ああ、ああ、なんという事だ!まさかまさか、こんな変な連中が、こんな、まさか!嘘《うそ》だ!よりによって、こんな所で、こんな最悪のタイミングで! 私の否定も空《むな》しく、目の前の男の手に血液が逆流していく。手についた傷がみるみるうちに塞《ふさ》がっていく!私は確信した。この男は私を助けに来たのではない。 この男は、この不死《ふし》者は、 私のことを、喰らいに来たのだ—— アイザックは更に身を乗り出し、とうとう完全に窓の外に出てしまった。ミリアが足を必死に支えるが、彼女の腕力では幾分無理がある。アイザックは壁の装飾に手をかけながら、ミリアにかかる負担を軽減してやった。そして遂に、車輪の間の鉄骨部分を掴《つか》むことに成功したのだった。 チェスを踏まないように、そして車輪に巻き込まれないように注意を払いながら、アイザックは慎重《しんちよう》に体を列車の下に潜《もぐ》らせた。 「なんだこれ、腕が縛《しば》られてる!待ってろ、今|縄《なわ》を解いてやるからな——」 ——馬鹿《ばか》め、私を自由にする前に食えばいいものを。縄を解いた瞬間がお前の最後だ。私の右腕をお前に—— チェスは気が付いた。そして今度こそ絶望した。 右腕は赤い怪物に擦《す》り千切《ちぎ》られて、チェスの体に存在していないという事に。 「よし!縄《なわ》が解けたぞ!」 アイザックは足と左手で自分の身体《からだ》を固定しながら、胴体でチェスの体が落ちないように支えている。そして、その右手でチェスの身体をしっかりと掴《つか》もうとしたその時—— パシリ チェスは差し出されたアイザックの右手を、自らの左手で払いのけた。 その勢いでアイザックの体から滑《すべ》り出し、そのまま列車の下へと落下していった。 ——ざまをみろ。これでもう私を喰う事は出来まい—— そう言ってニヤリと笑うチェスの目は、再び大きく見開かれる事となった。 極限まで集中していたチェスの目には、その光景はまるでスローモーションの様に映った。 チェスが落ちた事に気付いたアイザックには、何かを考える余裕《よゆう》などは無かった。もしも冷静な時だったらば、彼は次の行動を躊躇《ためら》ったかもしれない。 だが、この状況で自分の命を顧《かえり》みるほど、アイザックの頭は良く出来ていなかった。 次の瞬間。アイザックは何も考えず、チェスを助けようとその身を宙に躍《おど》らせたのだ。 ——そんな!そこまでして私の知識が欲しいのか—— 落下しつつあるチェスの身体に、アイザックの右手が迫る。 ーもうだめだ、このままこの男に喰われてしまう。あの忌《い》まわしい記憶が人に知られてしまう!そんなの嫌《いや》だ、助けて、誰か誰か、誰でもいいから助けて、やめて、お願いお願いやめてやめてやめて———— 子供のような悲鳴を上げて、チェスは固く目をつぶった。 だが、アイザックの右手が彼の頭に達することは無かった。 地面に叩《たた》き付けられる衝撃《しようげぎ》が思ったよりも柔らかいことに気付き、チェスは恐る恐るその目を開けた。 「きゃああ!アイザック——ッ!」 窓からはミリアの悲鳴が聞こえ、目の前には何か壁のようなものがある。 それがアイザックの服だと気付き、チェスはそこで初めて自分がアイザックに抱《かか》え込まれている事を知った。 アイザックは左手一本で列車に掴まっており、そのまま身体《からだ》が列車に引き摺《ず》られている。 「ガガガガガガガガガガガ」 奇妙な声を上げながら、アイザックは足から伝わる振動に必死に耐えていた。ウェスタンブーツの踵《かかと》についている拍車《SPIR》が唸《うな》りを上げて地面の上を跳《は》ねている。砂利《じやり》の上ではまともに回転しよう筈《はず》も無く、拍車は単なる突起としてアイザックの体をより一層強く振動させていた。 本来馬の速度を操る為の拍車だが、怒涛《どとう》の勢いですれ違う地面は一向に速度を緩《ゆる》めない。 だが、幸いなことにアイザックの四肢《しし》自体は地面に接触していない。両手を使えば何とか列車に這《は》い上がれるだろう。しかし、アイザックは決してチェスから手を離そうとはしなかった。 徐々に左手は限界を迎え、指が一気にはがれかける。 「アイザック!」 その手を掴《つか》んだのはミリアだった。彼女もまた何も考えずに窓を飛び出し、アイザックより手際良く車輪部まで降りてきたのだ。 しかしミリアには腕力が足りず、掴まえて間《ま》もなく自分も落ちてしまった。 それでもミリアは二人を逃がそうとはせず、チェスの身体《からだ》を庇《かば》うようにアイザックと抱《だ》き合った。アイザックはその瞬間右手をチェスから離し、まるでガンマンのような早業《はやわざ》で背中の投げ縄《なわ》を投げ放つ。 しかし所詮《しよせん》はガンマン、カウボーイの真似事《まねごと》は上手《うま》く行かず、縄は何にも引っかからずに宙を彷徨《さまよ》った。 三人の身体が地面に叩《たた》きつけられ、物|凄《すこ》い衝撃《しようげき》で地面を一度|跳《は》ね上がる。それでもミリアはアイザックを放さない。アイザックはミリアと縄を離さない。チェスはその二人の間に守られ、驚くほど軽滅された衝撃に身体を揺すれらていた。 全《すべ》てが終わるかに思えたその時、縄の先が何かに引っかかった。いや、違う。掴まれたのだ。 列車の下から伸びた、何者かの手によって。 それらは、一瞬のうちの出来事だった。 列車の下に回りこんだレイチェルが、金具に片手でしがみ付いているアイザック達を発見した。その手を掴もうと手を伸ばしたが、一瞬遅く、アイザック達の体は列車の下に落下してしまった。だが、その瞬間にアイザックの体から何かが飛んできて、レイチェルは思わずそれを掴み取った。 それはアイザックの持っていた投げ縄の輪の部分であり、その先はアイザックの腰のベルトに直結している。 次の瞬間、信じられないような力がレイチェルの腕にかかった。縄の先にいるアイザック達が地面に接し、そのまま砂利《じやり》の上を引き摺《ず》られ始めたのだ。 「ううッ!」 子供がいるとはいえ、三人分の体重がレイチェルの腕にかかる。彼女は必死にそれを引こうとするが、それは全く叶《かな》わなかった。 このまま引き摺《ず》り続けるよりも、いっそのこと離してしまった方が彼らに対するダメージも少ないのではないだろうか。そんな事も考えたが、なまじ今の状況で離せば、ロープが車輪に絡《から》んで三人がミンチ、最悪列車が脱線という可能性もある。何としても、この手を離すわけにはいかなかったのだが—— 足の怪我《けが》は無情にも彼女の神経に激痛を与え、その反動でロープが手から投げ出されてしまった。 「あぁぁぁ————ッ!」 思わず悲鳴を上げるレイチェル。 そのすぐ上を、真《ま》っ赤《か》な影が通り過ぎた。 クレアは列車の側面、装飾の上を器用に走り抜けていた。 食堂車の時と同じように、あの時よりも速い動きで。 レイチェルが声を上げる間《ま》も無く、宙に浮かんだ投げ縄《なわ》の先端《せんたん》に向かって手を伸ばした。 しかし、僅《わず》かにその手が届かない。もうだめかとレイチェルが思ったその時、クレアは壁を大きく蹴《け》り離した。クレアの身体《からだ》は完全に列車から独立し、それと引き換えに投げ縄の先端を手にする事に成功した。 何が起きたのか理解する間も無く、レイチェルの目の前でクレアの体が大きく回転した。 足が列車と反対の方向に伸びたかと思うと、クレアの身体目掛けて線路脇の支柱が迫る。 ぶつかると思った次の瞬間、クレアの足が支柱の側面に着地した。 一瞬の間を置き、クレアの身体が重力にしたがって傾きかける。 途端《とたん》にクレアは支柱を蹴り出し、再び空中へと踊り出た。 赤い人型は薄明かりの空にとても良く映え、その姿は美しくさえ感じられた。 そして、クレアは列車の側面、最初の個所よりも大分後ろの部分にしがみ付いていた。まるで何事もなかったかのような顔をしている。実際、何事もなかったのだろう。彼にしてみれば、『できる』と彼自身が信じた事を実行したまでだ。落下の可能性も、死の恐怖すらも微塵《みじん》も感じなかったのであろう。 これがチェスだけだったならわざわざこんな真似《まね》はしなかっただろうが、あの奇妙なガンマン達はれっきとした客だ。チェスの仲間の悪党という可能性もあったが、そんな事は助けてから考えればいいことだ。クレアはそう考え、乗客の安全を守る為に宙へと舞ったにすぎなかった。 そのままクレアは縄をもって走り出し、傍《そば》にあった扉——貨物列車の搬入口《はんにゆうぐち》へと向かった。 扉は何故《なぜ》か大きく開かれており、そこには褐色《かつしよく》の大きな人影が立ち塞《ふさ》がっていた。          ⇔ ドニーは退屈だった。 川を通り過ぎ、狙った荷物は全《すべ》て側面の扉から投げ落とした。ジャグジーに言われて手榴《しゆりゆう》弾《だん》の詰まった小さな箱を一つだけ取っておいたが、それもつい今しがたニースが持って行った。 彼女とニックはジャグジーを探して来ると言っていたので、この場に残っているのはドニー一人だけとなっていた。 する事もなくなり、開けた窓から外を眺めていたのだが……。 「おい、そこの大きいの!ちょっと手伝ってくれ!」 突然声をかけられる。声のした方に目を向けると、そこは列車の外だった。 列車の側面、ドアのすぐ脇に、真《ま》っ赤《か》な人影がしがみ付いている。 「う、うぁ。れ、『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』か?」 まさかこの大男からその単語が出てくるとは思っていなかった。クレアは一瞬だけ意外そうな顔を見せたが、直《す》ぐに気を取り直して行動を開始した。 クレアにしてみれば、自分一人で引き上げるのは時間がかかると考えていた時に、この大男を発見したのだ。これを利用しない手はあるまいと思って声をかけただけだったのだが。 「いいからこれを持て!そんで、思い切り引き上げてくれ!頼む!」 ドニーはわけが解《わか》らずに戸惑《とまど》っていたが、ふと、列車の後方、ロープの先から誰かの悲鳴が聞こえている事に気が付いた。 その先に目を向けると、誰かがロープの先に引き摺《ず》られているのが見えた。 「ムグぁ、一大事」 それを見て、差し出されたロープを思わず掴《つか》んでしまった。身体《からだ》に強い衝撃《しようげき》が伝わり、体が強く外に引きつけられる。扉の縁《ふち》を掴んで耐え忍んだその時、ドニーはその縄《なわ》の先に誰かが掴まっているのを発見する。 そのガンマンルックと赤いドレスは、紛《まぎ》れも無くアイザックとミリアのものだった。 「うあ、大変。いま助けるぞ!ぬがぁッ!」 言うが早いか、ドニーは何も考えずに縄を思い切り引き上げた。その結果—— 「おおおおおおおおぉおぉぉぉぉぉぉぉ——」 引き摺られていたアイザック達の体が勢い良く宙に舞い、屋根を飛び越え、車輌《しやりよう》の反対側に落ちていった。 その時に張り詰めた縄が、車上で戦っていたジャグジーに勝機をもたらしたとも知らずに。          ⇔ 「おお、川を越えたのお。強盗《ごうとう》からは逃げられたのかのぉ」 「よっしや、そろそろスピードを落とさねばな!列車がイカレっちまうぞぉ!」 機関室の二人が声を上げ、列車のスピードは徐々に落とされていった。 それに合わせ、列車に肉片が追いつき始めた。 チェスの身体《からだ》を構成していた、右腕と両足の赤い肉片が。          ⇔ アイザック達はやっとのことで貨物|車輌《しやりよう》の上に這《は》い上がると、そのまま屋根の上にゴロリと転がった。 「よかった、助かったな俺《おれ》達!」 「助かったね!」 そのままごろりと寝転がりたかったが、そういうわけにもいかない。二人の間には、手足を無くして苦しむ少年がいるのだ。 「よし、大丈夫かチェス!」 「しっかりして!」 大|怪我《けが》をした少年の身体《からだ》を大きく揺さぶる二人。血の少なくなった脳みそが程よくシェイクされ、チェスは再び自分の意識が遠のいていくのを感じていた。そのまま二人は人工呼吸を試みたり心臓マサージを繰り返したりしたが、根本的な解決には何もなっていなかった。 その時、後ろの方の車輌《しやりよう》から爆発音が響いて来る。 「何だ?敵か!」 「見て!あそこに誰か居るよ!」 列車の最後尾《さいこうび》の屋根の上で、二つの人影がぶつかりあい、そしてそのうち一人が屋根から消えて行った。その直後に、先ほどとは違ったタイプの爆発音が響き、列車の後方に大きな炎《ほのお》が上がる。 本来ならそこで大騒ぎを始めるはずの二人だったが、その時はそれどころではなかった。チェスの心配もあったが、彼らは屋根の上を追ってくる赤い肉片の群《むれ》に気が付いたのだ。 「わああ!なんか来る!赤いのが来る!」 「ひゃぁ!き、きっと『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』だよお!赤い怪物っていうのも、きっとあれの事だよ!」 騒いでいる間にも肉片は車輌の屋根を這《は》いずり、連結部を飛び越え、確実にアイザック達の下に迫り来る。赤いゼリー状の物体が、まるで蟲《むし》の群のように行軍を続けていた。 「おい、ミリア!こいつらチェスに群がってくるぞ!」 チェスを運んで逃げようとするが、彼らは宿主である少年の体に誘導されて行く。 「大変だ!きっと食べ残しのチェス君を食べちゃうつもりだよ!」 「くそ!!そんな事させるか!」 アイザックはチェスに覆《おお》い被《かぶ》さり、迫り来る赤い肉片から少年を守ろうとした。更にその上にミリアが覆い被さり、二人を肉片から守ろうとする。 肉片はそんな障害《しようがい》をものともせず、二人の体の隙間《すきま》に染《し》み込んで行った。赤い肉片に覆われる三人の姿は、昇り行く朝日の中に奇妙なほどの調和を見せていた。 暫《しばら》くの静寂が統き、彼らは物|凄《すご》い爆音で我に返った。皮肉な事に、チェス自身が作った爆薬の破裂音で彼らは我に帰る事となった。 「……あれ?赤いのが居なくなってる」 「消えちゃったね……チェス君は?」 二人が恐る恐る体の下を覗《のぞ》いてみると、そこにはしっかりとチェスの姿があった。 右腕と両足が揃った、完全な姿で。 チェスの意識は、辛《かろ》うじて途切れずにいた。その間に感じていたものは、どこかで永久に失ったと思っていたものだった。 アイザックもミリアも不死《ふし》について何も知らないという事が良く解《わか》った。どうやら、何らかの偶然で彼らは不死になってしまったようだ。列車から落ちたのに二人とも傷一つないところを見ると、おそらくミリアも『不死者』なのだろう。 今なら二人は無防備だ。彼らの頭に右手を伸ばす事など簡単に出来るだろう。しかし、チェスはどうしてもそれをする気にはなれなかった。二人はチェスの無事な姿を見て、半分泣きながら喜んでくれている。そんな二人を『喰う』事が、チェスにはどうしても躊躇《とまど》われた。 今更善人ぶるつもりは無い。ただ、彼らの心を覗《のぞ》いてしまったら。彼らの記憶を共有し、自分の心と比べてしまったら。チェスは今度こそ本当に自分自身を許せなくなるだろう。そんな思いを抱《いだ》きながら永遠に生き続ける。それはきっと、とても苦しい事だから。 あの赤い怪物に受けた痛みより、もっともっと辛《つら》い事だと思うから。 アイザック達はチェスの無事を泣きながら喜んでいた。 「いや、良かった!本当に良かったー!」 「良かったね!でも、どうしてチェス君の怪我《けが》が治っちゃったのかなあ」 「そんなのは簡単さ、ミリア」 「どうして?」 アイザックはいつもの調子を取り戻し、自分の答えに絶対の確信をもって答える。 「いいか、『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』ってのは、悪い子からパクって食っちゃうだろ。きっと食べた後で『チェスはいい子だった』って気がついて、食ったものを返しに来たのさ!」 「そっか!それならつじつまが合うね!」 「違うよ」 喜ぶ二人に対して反論を唱えたのは、他《ほか》ならぬチェス自身だった。しかし、彼は再生の理由について反論するわけではなかった。 「ボクはいい子なんかじゃないよ……ボク、嘘《うそ》をついたんだ」 「嘘?」 「ボクはニューヨークへ家族に会いに行くって言ったけど、本当は知り合いに会いに行くだけなんだ」 少し沈黙した後、チェスは言葉を続けた。 「ボクには、家族なんて居ないんだ。今までも——」 これからも、と言おうとしたが、その前にアイザック達が声を上げる。 「そうだったのか!」 「チェス君はやっぱりいい子だったんだね!」 「え……?」 戸惑《とまど》うチェスを前に、アイザック達は勝手に話を進めていく。 「皆を心配させないようにそんな嘘《うそ》をついてたなんて……一番|辛《つら》いのはチェス自身なのにな」 「チェス君は、すごく強くていい子だったんだね!」 チェスに反論の機会も与えず、アイザックは自信満々に自分の胸をドンと叩《たた》く。 「よし!このアイザックに任せとけ!」 「よかったねチェス君、アイザックに任せればもう安心だよ!」 ミリアは力強く頷《うなず》き、チェスの頬《ほお》を優しく撫《な》でてやった。 「だからね、もう笑ってもいいんだよ!」          ⇔ クレアは屋根の上に静かに立った。朝日を背に受け、目の前に二人の男女を見|据《す》えている。 顔面に刺青《いれずみ》をした男が手に持っているのは、チェスが言っていた新型の爆薬だろう。 どうもあの大男は車輌《しやりよう》の隠し荷物を川に投げ下ろしていたようだ。とっ捕まえようか迷ったが、そこでクレアはチェスの言葉を思い出したのだ。 『——ルノラータと爆薬の取引を——』 つまり、あの積荷の中身はルノラータ・ファミリ——の武器だという事だ。それがなくなれば、ガンドールに戦況が有利になりえるという事だ。 そう考えたクレアは、ドニー達を見逃してやる事にした。いずれにせよ、あんな危《あぶ》ないものを列車に積んで走って堪《た》まるか——そういう思いもあったのだが。 そして今、その強盗《ごうとう》団の親玉が目の前に居る。顔面に刺青《いれずみ》を入れた男が、強い決意を籠《こ》めた目でこちらに走ってくる。 彼が何をするつもりなのかも、クレアは既に理解していた。 この男は怪物を退治しようとしているのだろう。『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』という名の怪物を。——この列車を救う為に。それは今までの状況や会話を考えて何となく解《わか》った。 そして目の前に立つこの男は、クレアの目を真《ま》っ直《す》ぐに見つめている。今のクレアと目を合わせて、怯《おび》えの欠片《かけら》も見せてはいない。——ああ、凄《すご》く優しい目だ。お人良しの目をしている。悪魔のような刺青をして、魔窟《まくつ》の如き列車の中の誰よりも優しく強い目をしている。 クレアはふと、その目が美しくて堪まらないと思った。今のクレア自身の目が全《すべ》ての光を閉じ込める内張りの鏡の眼球だとすれば、彼の目はまるで静かな海を眼球の中に閉じ込めたかのようだ。 丁度《ちようど》その時、クレアの背後には朝日が昇り始めていた。太陽の光が青年の目に反射して、まるでクレアの目に太陽の光が吸い込まれて行くような気さえした。 ——悔しいが、俺《おれ》なんかより余程強い目をしていやがる。物語に出てくるヒーローの目だ。 怪物を倒す英雄の目だ。こんな強い光を吸い込んじまったら、俺の目が破裂《はれつ》して無くなってしまうかもしれない。 ばんやりとそんな事を考えながら、クレアはこの青年に倒されてやる事にした。自分は『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』なのだ。伝説の通りに、朝日の中に消えていかねばならない。それが物語りを紡《つむ》ぎ、他人を巻き込んだ者の義務というものだろう。 体当たりを身体《からだ》に受け、そのままもつれ合い転がって行く。 そして、二人は列車の側面に落ちていった。 落ちながら、刺青《いれずみ》の青年は片方の手榴弾《しゆりゆうだん》のピンを抜いた。そこでクレアは、青年に向けて初めて口を開いた。 「玉砕覚悟《ぎよくさいかくご》か。それは気に入らないな」 「——え?」 クレアは驚いた表情の青年を抱《かか》え、列車の横に静止していた。この一晩で何回やったか解《わか》らないが、車輪の間に足を絡《から》ませるのにはもう飽《あ》きて来た。次からは別の方法を考えるかな。 クレアはそんな事を考えながら、青年に告げた。 「早く捨てないと、上の女も死ぬぞ」 刺青の青年はハッとして、慌てて手榴弾を線路に投げ捨てる。衝撃《しようげき》に強いその陶器は、砂利《じやり》の上を転々と転がり—— 爆発、そして衝撃。 刺青の青年を抱《かか》えたまま、クレアはその衝撃に難なく耐え切った。 爆風が落ち着いた後、クレアは刺青の青年を抱えたまま側面を伝い、列車の横のドアから車掌《しやしよう》室に入り込んだ。 血に染まった車掌室を抜け、刺青の青年を通路に立たせる。そこでクレアは、先刻の言葉の統きを呟《つぶや》いた。 「戦う前から玉砕を考えるなんて馬鹿のやる事だ。一回やりあってみて、駄目そうかな——って思ってから初めてやる事だろがよ」 ぶつぶつと文句を言いながら、クレアは青年の怪我《けが》の様子を見る。足を撃たれているが立っていられるのなら大丈夫だろう。無責任な判断をして、ある意味|的確《てきかく》な助言を告げる。 「二等客室の3号室に、魔術師《まじゆつし》みてえな格好をした灰色の男がいる。そいつは外科医だ。見てもらえ」 「で、でも」 「心配すんな、あの白服の変態も黒服のおっかねえ姉ちゃんももう居ない。お前が倒した奴《やつ》が最後だと思うから、安心して寝てろ」 そう言って、クレアは右手にある物を掌《てのひら》で弄《もてあそ》んだ。それは、新型爆薬の手榴弾だった。刺|青《ずみ》の青年が投げ捨てた物のうち、ピンの抜いていない方を素早くキャッチしていたのだ。 「いいから行けよ。上の女の子を忘れんな」 混乱したように刺青が歪《ゆが》んでいたが、ペコリと一回頭を下げると、そのまま列車の連結部に戻って行った。そこからまた屋根の上に出るつもりなのだろう。 クレアはその青年の背中に、一言だけ声をかけて見送った。 「女は待たせるなよ。何処《どこ》かに行っちまったら、あれほど探すのが面倒なものも無い」 その言葉は、半分は自分自身に向けられていた。 刺青の青年を最後まで見送ると、クレアは手榴弾の栓《せん》を捻《ひね》り、信管を取り外した。 「さっきの爆発からいくと、こんなもんか」 そして中にあった爆薬を、顔の無い死体に適当に振り撒《ま》いた。粉|微塵《みじん》にする必要は無い。ただ、この死体がクレアだとごまかせるぐらいになってくれればいいのだ。顔面を削《けず》っただけではどうにも心細い。あとは鑑識《かんしき》が間抜《まぬ》けな事に期待するとしよう。 クレア・スタンフィールドは今日死んだのだ、そういう事にしておこう。その方がこれからの仕事もやり易《やす》い。クレアはそのような打算を胸に秘めながら、中年《ちゆうねん》車掌《しやしよう》の拳銃《けんじゆう》を取り出した。 「ああ、これは別に列車を汚《けが》すわけじゃないぜ。俺《おれ》なりの別れの挨拶みたいなもんだ」 その場にいない人間に言い訳をすると、彼は床に巻かれた火薬に向けて弾丸を撃ち放った。          ⇔ 「チェス君!」 アイザック達が食堂車に戻ると、そこにはベリアム母子《おやこ》が待っていた。 「ああ、無事だったんですね!アイザックさん達が一緒にいてくれたんですね!」 「良かったぁ。チェス君がだいじょうぶで本当によかったぁ!」 無邪気《むじやぎ》に抱《だ》きついてくる少女を見て、チェスは複雑な心境だった。子供というのは、どうしてこうも簡単に人に心を許せるのか。勿論《もちろん》心を許さない子供もいるわけだが、その差はとても両極端だ。 ——ああ、もしかしたら、アイザックとミリアも子供と同じなのかもしれないな。 チェスはメリーの笑顔を見て、何処《どこ》かほっとしていた。 食堂車の人間を殺してしまわなくて本当に良かった。この子を裏切らないで済んで本当に良かったと。 何故《なぜ》それが良いと思えたのか、この時のチェスにはどうしても解《わか》らなかった。 チェスはまだ表情が戻らぬままだったが、ただ一言、『ごめん』と告げた。          ⇔ 誰もいなくなった屋根の上。そこに佇《たたず》むのは人ではなく、列車に追いついた一匹の『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》」。 車掌《しやしよう》の格好をした二つの死体を爆破して来たところで、再び彼は屋根に戻って来たのだ。 シャーネが座り込んでいた辺りにその書置きは残されていた。 列車の屋根に、ナイフで直接刻まれていた。 【マンハッタンで待ちます。何時《いつ》までも貴方《あなた》を待ちます。どうか、どうか探して下さい。私も貴方を探します】 それを見て、赤い怪物は溜息《ためいき》をついた。 「マンハッタンと言われてもなあ……待ち合わせ範囲が広すぎるな。時間もだけどよ。……第一、俺《おれ》の名前も教えてねえしあいつの名前も聞いてなかった……あの白服が『シャーネ』とか呼んでた気もするが……本名かな?糞《くそ》、本当に探すのが面倒だ」 煙を上げる車掌室を見ながら、クレアは照れくさそうに笑う。 「それに、これじゃ解《わか》らないっての。——俺《おれ》に依頼するつもりなのか結婚するつもりなのか、それとも俺を殺すつもりなのかさあ」 マジマジと文章を見つめ直し、肩を回しながら独り言を締めくくった。 ——それにしても……思ったより全然|丁寧《ていねい》な文章だな。あいつ、実は意外と|し《’》と《’》や《’》か《’》な女なのかもな。それとも俺に一目《ひとめ》惚《ぼ》れしてくれたとか?参《まい》ったなオイ。だとしたらこりゃ初めてのラブレターって事になるのか?返事次第じゃ、この屋根を記念に取っときたいところだ。 会ったばかりの女に勝手な期待を膨《ふく》らませながら、彼は連結部へと降りて行った。 「探してやるさ。ガンドールの兄弟に義理を果たした後になるが」 その呟《つぶや》きは独り言ではなく、遠く離れたシャーネに対する言葉だった。 「必ずな」 そして怪物は姿を消した。 『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』はもういない。 皆が怪物の存在を信じ、伝説の通り、朝日に照らされ消えて行った。 その姿は誰にも見送られる事もなく、昇る太陽の中に溶け込むように。                                             特急編 了 エピローグ『作業着の女』 その後『フライング・プッシーフット』は無事に運行を続け、蒸気機関車の進入禁止区域に迫ってきた。 ここで先頭車輌を電気機関車に切り替えて、煤煙《ばいえん》の無いクリーンな状態となってペンシルヴェニア駅に向かうのだがその切り替え場所に待っていたものは、おびただしい数の警官隊であった。 列車はすぐに警察に占拠される。皮肉な事に、それは黒服や白服よりも遙《はる》かにスマートに、効率よく行われた。 その後車内で生き残っていた黒服と白服は連行され、乗客達は二時間ほどの調査などを受けてから解放された。最後に、この件は他言無用という条件を元に、この列車のスポンサーである企業『ネブラ』から多額の賠償《ばいしよう》金が出される事となった。どういうわけか、国と企業はこの事件をあまり公にしたくはないようだ。 レイチェルの切符は半分血に染まっていたが、警官や駅員達は『レイチェル自身の血』という事で納得してくれたようだ。 皮肉な事に、彼女の足の怪我《けが》があったからこそ出来た言い訳であった。 撃たれた足の応急処置も終わり、やる事が無くなって椅子《いす》に座っていると、荘厳《そうごん》な雰囲気を纏《まと》った男が近づいて来た。 「妻《つま》と娘《むすめ》が世話になったようだな。礼を言う」 最初は何の事か解《わか》らなかったが、どうやらレイチェルが助けた母親の亭主のようだ。つまり、ベリアム上院議員という事か。彼女も情報屋の下《した》っ端《ぱ》だが、ベリアム夫人の正体は助けた後まで気がついていなかった。自分もまだまだだと思いながら話を聞いていると、突然分厚い紙封筒を渡された。 中を覗《のぞ》くと、束になった百ドル札が入れられていた。 「取っておいてくれたまえ」 「なッ……!」 そのままベリアム議員は背を向け、レイチェルの名前すら聞かずに去って行った。 金がいらないわけでは無いが、これはあまりにも腹立たしい。自分の行為が金目当てでやったと思われたような気がして、レイチェルは金をその背に投げつけてやろうと手を振り上げた。 ところが、その手を優しく包む者がいた。ベリアム夫人本人だ。 「主人が本当に失礼いたしました。でも、そのお金は受け取ってあげて下さい」 「あなたが謝《あやま》る必要はないよ」 「いいえ、いいんです。あの人は不器用なだけなんです。お金意外に、感謝を表す方法を知らないんですの。それでよく誤解されるんですけれど……」 そんな事を言われては、今さら金を投げつける事など出来ない。そんな奴《やつ》と結婚するなと言いたかったが、それは心の中だけに押し留めておいた。 「それに、本当なら私から先に言わなければいけないことでしたのに……本当に、いくら感謝しても足りないぐらいです」 すると、夫人の後ろからメリーが顔を出し、レイチェルに感謝の言葉を述べた。人見知りの激しかった子が、レイチェルに向かっては素直に目を輝かせている。 「レイチェルお姉ちゃん、本当にありがとう御座《ござ》いました!私、レイチェルお姉ちゃんみたいな、立派な人になります!」 少し大人《おとな》びた少女の言葉を聞いて、レイチェルはいよいよ気まずくなってきた。無賃乗車であるという事実が、少女を騙《だま》しているような気がして心をチクチクと痛ませる。 その後、結局彼女は金を受け取って行った。ペンシルヴァニア駅に着いた後、切符売り場に直行する。彼女は暫《しばら》く考えた後、封筒の金を半分だけ出して、買えるだけの切符を買ってやった。そして彼女は、大量の切符を持って駅を去る。 もう半分の金の使い道は決まっている。とりあえず彼女は足の正式な治療を受けるため、町の外科医へと足を向けた。痛みは相変わらず続いているが、何かが吹っ切れたような力強い足取りで。 [#改ページ] エピローグ『仮装強盗』 ニューヨーク ペンシルヴェニア駅 列車の扉が開き、乗客は波乱に満ちた長旅からようやく解放された。 事件の舞台となった車輌《しやりよう》をそのまま運行させるわけにはいかず、とりあえず別の列車によってペンシルヴェニアまで運ばれて来るかたちとなった。 喧騒《けんそう》で賑わうホームの中、待ち人を静かに探す影が佇《たたず》んでいる。 友人であるアイザック達を待つフィーロとエニス。 古い仲間であるチェスを待つマイザー。 そして家族の一員でもある殺し屋ークレア・スタンフィールドを待つガンドール三兄弟。 彼らの待ち人は一向に現れず、列車の扉から現れる人影もまばらになりつつあった。 やがて、足を怪我している作業着の女が降車して来た。 続くように、全身に灰色を纏《まと》った人間とその助手らしき男。更に顔面に刺青《いれずみ》を入れた男や眼《がん》帯眼鏡《たいめがね》の娘《むすめ》、身の丈《たけ》2メートルを越す大男等が現れた。 奇妙な一団に少しだけ目を奪われるも、フィーロ達はただひたすらに待ち続けた。 そして、最後に列車から現れたのは———— ————服がボロボロになった西部のガンマンと、同じくボロボロの踊り子の姿だった。 「おお!エニスにフィーロにマイザー!久しぶりだな、マイいい人達!」 「元気そうで何よりだね!」 アイザックとミリアの声に一同は安心するが、一方で的確な突っ込みも入れる。 「その格好は何だよ?」 「ふふう、今の俺《おれ》は西部のガンマンさ!東部のベル・スターとでも呼んでくれ」 「今、西部って……」 「ベル・スターってのは女じゃなかったっけか?」 フィーロとベルガの突っ込みを無視し、ミリアも適当な無法者の名を名乗る。 「じゃあじゃあ私はね!北部のエドガー・ワトソンだね!」 「そいつはマイラ・ベル・シャリー……つまりベル・スターを撃ち殺した奴《やつ》なんだが」 「ええええ!私、アイザックを殺しちゃうの?そんなの嫌《いや》だよう!」 「大丈夫さミリア!俺はミリアの為なら死ねる!」 全く変わりの無い二人を見て.フィーロとエニスは安心したように笑った。 「ガハハ、手前《てめえ》ら相変わらず馬鹿《ばか》だな」 ベルガの嘲笑《ちようしよう》に、二人は腕を大きく上げて抗議する。ぶんぶんと腕を振り回すその姿は、まるで発条仕掛けの玩具《おもちや》の様だ。 「なにい!俺を馬鹿にするのはともかく、ミリアを馬鹿にするのは許さないそ!」 「私を馬鹿にするならともかく、アイザックの悪口を言うのは許せないよ!」 「つまり怒り二人分だ!」 「二人分が二人で四人分だね!」 「多数決なら俺達の勝ちだ!」 「1対4だね!」 「え、あれ、ちょっと待てよ……」 畳《たた》み掛けるような二人の無茶理論に対し、ベルガは小さな声で呟《つぶや》きながら指を折り始めた。 「恥ずかしいからやめてよ、ベル兄」 そうこうしている内に、アイザックが思い出したように声を上げた。 「あ、そうそう!俺達、エニスにお土産《みやげ》があるんだよ:」 「とっておきだね!」 「ええッ、そうなんですか!ありがとうございます!」 嬉《うれ》しそうにお礼を言うエニス。アイザック達はそんな彼女に背を向けて、何故《なぜ》か列車の中に戻っていった。不思議そうな顔をして一同が見守っていると、やがてアイザックがお土産《みやげ》を|連《’》れ《’》て《’》戻って来た。 彼の右手には、服を着替えた少年が立っている。 目を丸くするフィーロ達を前に、アイザック達はとても嬉しそうに彼を紹介した。アイザック達はずっと気にしていたようだ。カリフォルニアで受け取った、エニスの手紙の内容を。 「この子ね、チェス君っていうの!」 「この子、エニスの弟にしなよ!それがいいよ!」 [#改ページ] エピローグ『錬金術師』 ああ、目の前にマイザーがいる。悪魔を呼び出し、不死《ふし》の全《すべ》てを知る男だ。そうだ、私はこいつを喰らう為にこの町までやって釆たのだ。馬鹿《ばか》な奴《やつ》だ。きっと私が昔のままの私だと思っているのだろう。それが貴様の最後だ。さあ、マイザーが近づいて来たぞ。いまだ、馬鹿めと叫んで右手を差し出すぞ。 「マイザー……」 あ、あれ、おかしいな。違う違う、名前を呼んでどうするんだ。 やめろ、マイザー、頭なんか撫《な》でるな。もう私は二百|歳《さい》を越してるんだぞ、くそ、マイザー、お前は右利きだったはずだろう、何で左手で頭を撫でるんだ。余計な事に気づかうな、くそ、言葉を振り絞《しほ》れ、『馬鹿め』と叫ぷんだ、右手をマイザーに突き出すんだ! 「会いたかった」 違う、『馬鹿《ばか》め』だ!くそ、しっかりしろ!何回|大人《おとな》の外見をした奴《やつ》らを騙《だま》したり 逆に騙されてきたりしたと思ってるんだ! 誰も信じるな! マイザーもきっと私を喰おうとしているぞ、『奴』のように私を蝕《むしば》み始めるぞ! くそ! くそ! あいつらのせいだ! あの赤い怪物と、この変なガンマンたちが私を狂わせたんだ! でも、違う 馬鹿めと 奴が違う 会いたかった やめろ ずっと一人だった ボクはずっと孤独だった 違う私は孤独を望んだんだ、『馬鹿め』と言え! 会いたかった。昔の誰かと ちが 右手を——    ————会いたかった、誰でもいい、昔のボクを知っている人と会いたかっただけだ。 あの時の自分を知っている人に。夢を見たかっただけなんだ、まだ何も知らなかったあの時の船の上の夢を。 「マイザ——。会いたかったよマイザーっ」 明日にはきっと夢も覚めて、いつもの悪念に満ちた狡《ずる》賢《がしこ》いボクに戻ると思う。でも、きっともうマイザーの事を喰べようなんて考えないだろう。そんな事をすれば、もう悪夢しか見られなくなる事が解《わか》ってるから。今はただ、この夢をもう少し見たい。昔のボクのことを知っている人に抱《だ》きついて、もう少しだけ、もう少しだけ泣き続けたい。 もう少し、もう少しだけ———— 駅のホームの中。幼い風貌《ふうぼう》の『不死者』は古い仲間の胸にうずまって、何時までも何時までも泣き続けた。 いつまでも、いつまでも。 エピローグ 『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』 [#改ページ] 「失礼、ガンドール様でいらっしゃいますか?」 「そうですけど?」 ラックの元に駅員がやって来て、一通の封筒を渡していった。その内容を読むと、キースは弟二人を連れて駅の外に出て行った。 その際、ベルガがフィーロに詫《わ》びをいれて行った。 「わりいなフィーロ。クレアの奴《やつ》、外で待ってるみてえだからちょっと行ってくらぁ」 路地裏の一角に、その男は待っていた。 「クレアよお、お前|車掌《しやしよう》なのになんでこんなとこに」 「俺はもうクレアじゃない」 ベルガの問いを無視して、自分の事だけを端的《たんてき》に告げた。 「さて、行くか。まずは誰を殺せばいい?こっちは夕べ軽い運動しか出来なくて体が鈍《にぶ》ってるんだ。久々に本気を出せる仕事がしたい」 そう言いながら、服を着替えたクレアが先頭に立って歩き出した。キース達は呆《あき》れながらも、その後について路地裏を歩き始める。 「ぱっぱと終わらせよう。俺《おれ》はこの後、人を探さなきゃいけないんだ。もしかしたら俺と結婚してくれるかもしれん奴《やつ》だ」 クレアの言葉を聞いて、三兄弟は顔を見合わせる。 「お前、もしかしてまた初対面の奴に『結婚してくれ』って言ったのか!」 「近い」 「近いじゃねえよこの馬鹿《ばか》!お前それで今まで何人の女に振られたと思ってんだ!」 呆《あき》れるベルガの言葉に対し、クレアは何ら戸惑《とまど》いを見せずに言葉を返す。 「まあ待て、俺は別に軟派《なんぱ》な態度でもなければ冗談でもなく、本気で言ってるんだから問題は無い。それで今まで俺が振られてきたのは、きっとこの先もっといい女がいるという事に違いない。何せ、この世界は——」 「——『俺にとって都合がいいように出来ている』ですか」 恐らく今まで何百回も聞かされて来たのだろう。単純にそう問い返す。 「そうだ。とにかく、今回はいい返事がもらえるかもしれないんだ。それにな、もしそっちが駄目《だめ》だったとしたらもう一人いい女が居てな。振られたら今度はその女にアタックしてみようと思う」 「節操《せつそう》の無さも相変わらずですね」 「馬鹿な。俺は二股《ふたまた》をかけた事など一度も無いぞ?そもそも一度も女と付き合った事が無いわけだしな。スパっと告白して駄目だったスパッと次へ。OKだったらその娘《こ》だけを愛し続ける。何の問題もあるまい」 ある意味正論を吐《は》くクレアに対し、ラックは半分|諦《あらら》めたように溜息《ためいき》をついた。 「……その勢いをフィーロにも見習って欲しいですね」 不意に出て来た友人の名に、クレアは懐《なつ》かしそうに目を細めた。 「フィーロか、会いたいな。あいつがどうしたって?」 「好きな娘と一年も同棲《どうせい》しておきながら、告白もキスもしてないんですから」 「馬鹿な……奴は本当に人類か?」 妙な言葉遺いで驚きながらも、クレアは歩く速度を一向に緩《ゆる》めない。 「ともあれクレアさん。いきなり結婚の話を受けるような女性は信用しない方がいいですって」 ラックの意見を聞いて、彼はどうでもいい所に反論した。 「クレアは死んだ。少なくとも戸籍上では死んだ事になるだろう」 クールに決めたつもりになっている男に対し、ラックがさも当然のように突っ込みを入れる。 戸籍上死んでたら、その人と結婚できないじゃないですか」 その言葉に対し、クレアは足をピタリと止めて振り返った。 「しまった、どうしよう。戸籍っていくらぐらいで買えるんだ?」 「わけが解《わか》りませんよクレアさん。それじゃあ、これから何て呼べばいいんですか」 クレアは再び歩き出しながら、事も無げにこう言った。 「ま、『ヴィーノ』か————『|線路の影をなぞる者《レイルトレーサー》』とでも呼んでくれ」 「だっせぇ」 ニューヨークの路地裏で、ベルガとクレアの大|喧嘩《げんか》が始まった。キースはそれを見ながらも、これから激化するであろう抗争の事に思いを寄せ統けていた。 おそらくこの喧嘩を最後に、暫《しばら》く平和な光景は見られまい。キースは無言のまま、その喧嘩を静かに見つめ続けていた。 [#改ページ] エピローグ 『殺人狂』 捜査《そうさ》官であるエドワードの下に、地元の警官が報告を行っている。 「生存者がいたそうだな」 「はい、男女の二人組でして……恐らく強盗《ごうとう》団の一人かと思われます」 エドワードの元に、生存者の情報が流れ始める。 「て、その二人は?」 「女の方は首を痛めてますが命に別状はありません。男の方は重症でして、今はビルさんが病院で事情聴取をしています」 その生存者が発見された場所の傍《かたわ》らで、数人の警官達があるものを囲んでいた。 「それにしても、この支柱は何で折れてるんだ?」 「あの生存者がぶつかったんじゃないか?」 「……やっばよ、殴《なぐ》ったんだと思うか?」 「常識じゃありえねえって、それは!」 「でもよ……あの男の腕の状態を見ただろ?」 「見た、だから否定しきれねえ。あの男は化け物か?」 「どっちにしろ、あの腕は切断以外ありえねえだろうな」 彼らは男の左腕の惨状《さんじよう》を思い出し、何人かは再び吐《は》き気を催した。 生存者である白服の男の左腕は、肘《ひじ》から先が|骨《’》以《’》外《’》何《’》も《’》無《’》く《’》な《’》っ《’》て《’》い《’》た《’》のだ。骨だけは綺麗《きれい》に残り、肉だけが綺麗に吹き飛んでいた。ただでさえありえない状態ではあったのだが、それ以上にありえない事があった。 その男が、現在何事も無かったかのように取調べに応じているという事だ。 そこから少し離れた病院の中で、ビル・サリバンがラッドに対して取り調べを行っていた. 「んー……、では、罪をお認めになると」 「まあな。ああ、言っとくが俺《おれ》が殺したのは全部正当防衛だぜ。誘拐未遂《ゆうかいみすい》についちゃあ全部認めてやるが、そこんとこは頼むぜ」 「あー……、まあ、それは検事さんや弁護士さんと相談してください」 ビルが去ろうとする時、ラッドはその背に質問を投げかけた。 「ヒューイ・ラフォレットって知ってるか?」 「えー……、まあ。有名人ですから」 「あいつ、どこの刑務所に入るんだ?」 「んー……まだ決まってませんけど、恐らくアルカトラズの軍事刑務所じゃないですかねえ」 「そうか、ありがとよ」 「あー……。お大事に。裁判までには義手職人を紹介しときますよ」 それだけ言って、ビルは部屋を出て行った。 ——アルカトラズかぁ。相手にとって不足はねえなあ。一体どんな手を便えば、俺もアルカトラズに入れて貰《もら》えるのかねぇ。クク。 ラッドは『不死《ふし》者』を殺す時の快感を想像して、恍惚《こうこつ》とした表情で眠《ねむ》りに落ちていった。 [#改ページ] エピローグ『武装テロリスト』 灰色の医者フレッド。彼の新しい助手になった男が、静かに呟《つぶや》いた。 「ああ、ラッドもルーアも結局戻ってこなかった。あいつらの事だ、生きてはいるんだろうけどよぉ」 彼は白服の一人だったが、列車に警察が乗り込んだ際にフレッドに頼み込んで『助手』という事にしてもらって警察の手を逃れたのだ。傍《そば》にいた不良達には睨《にら》まれたが、彼らも犯罪者の身なので警察に彼を突き出すような事はしなかった。 その後、外部で鉄道会社と交渉していた仲間に連絡を取ってみたが、鉄道会社はあっさりと要求を蹴《け》ったそうだ。どうも黒服達は政府の方を脅《おど》していたらしく、その関係で鉄道会社になんらかの圧力がかかっていたようだ。どの道成功するとは思っていなかった作戦だが、黒服が原因でしくじったと思うと悔しさもひとしおだった。もっとも、今こうして生きている上に逮捕もされていない。彼は白服集団の中では最も運が強かったと言わざるを得ないだろう。 どこにも行くあてがなくなり、結局こうしてフレッドの病院で雑務をする事になった。 白服だった男の呟《つぶや》きに対し、フレッドは静かな笑みを浮かべながら答えた。 「なあに、生きているならいつかは会えるさ。生き続けてさえいれば、いつかは必ずな。……そう言えば、あの男も誰かを探しておったな」 「あの男?」 「ああ、あの男の治療をしていたから列車を一本遅らせるハメになってな……おかげで高い切符代がかかってしまったものだ。いや、治療に結構時間がかかった上に警察まで出て来てなぁ」 「警察?」 「うむ。私が車でシカゴの町に向かってる途中、遠くの荒野で凄《すご》い爆発が見えてな——」          ⇔ グースは生きていた。 あの業火《ごうか》に包まれながらも、奇跡的に一命を取り留めていたのだ。 ——こんなところで死んでたまるか、生き延びてやる、そしてヒューイの体の秘密をなけなしの執念《しゆうねん》に縋《すが》り、線路の横道を這《は》って行く。 ——この傍に仲間がいるはずだ。列車に乗らずに政府と交渉を続けていた筈《はず》の十人が。川に差しかかった時、狼煙《のろし》が上がっているのが見えた。つまりは政府は交渉を受け入れていたという事だ。くそっ、あと少しの所で!しかしまだ終わりはしない、十人いれば、再び体勢を立て直すことは十分———— その時、彼の頭上に人影が立ちふさがった。 「探しましたよ。グース殿」 ——助かった、仲間が私を見つけてくれたのか—— そう思って顔を上げたグースの顔に、人影の吐《は》いた唾《つば》が降りかかった。 「なっ……」 グースは驚愕《きようがく》した。そこに立っていたのは、顔に大きな火傷《やけど》を負った男だった。顔だけではない。首筋や手にも大きな火傷の痕《あと》が見え、更に言うならば片手が切り落とされている。そして、それは確かにグースが見覚えのある男だった。 「……ネイダー……っ!」 作戦前にグースを裏切ろうとし、逆に始末した筈《はず》の男。爆炎《ばくえん》に巻き込まれて、消し炭《ずみ》になっているはずだった男。 「いやー、他《ほか》の死体を盾《たて》にして即死は免《まぬが》れましたが、あそこで医者が通りかかってくれなければ危ない所でしたよ……。まあ、今もこうして立っているのがやっとですがね」 ネイダーの手には手錠《てじよう》が嵌《は》められている。良く見ると、周囲には何人かの警官の姿が見受けられる。警官達はまだグースの存在に気が付いていないようで、周辺の茂みなどを闇雲《やみくも》に探索していた。 「実地検分ってやつですよ、グース殿。ちょっと警察と取引をしましてね、計画と交渉役の居場所を教える代わりに、私は執行|猶予《ゆうよ》で済むってわけです。勿論《もちろん》こんなこと公にはできませんがね。どうやらこの事件自体あまり公にはしないみたいです」 「きさ……ま」 「ああ、あんたが頼りにしてる交渉役の十人、たった今逮捕されたそうですよ?ご愁傷《しゆうしよう》様でしたねえ」 火傷《やけど》の男はその場にしゃがみこみ、絶望的な表情をしたグースに顔を近づける。 「俺《おれ》をさっさと殺しとけば良かったんだよ。あんたはやっぱり軍人になりきれなかったなあ」 ネイダーはその言葉に、憎しみと憐《あわ》れみを全《すべ》て籠《こ》めて言い放った。 「同情に値するぜ、落ちこばれ」 冷たく見下ろすネイダーに対し、グースは無言のまま顔を伏せた。そして—— 「勝手に動き回るなネイダー!逃亡と見なすぞ!……ん?生存者か!?」 慌《あわ》ててやってきた警官に対し、ネイダーは溜息《ためいき》をつきながら答えた。 「死んだみたいっすよ。たった今ね」 うつ伏せに倒れるグースの身体《からだ》。その口からは、小さな肉片と大量の血が溢《あふ》れ出している。 もう動かない黒服を背にして、ネイダーは興味を失ったように歩き出した。 「ああ畜生、もう散々だ。ああいう死に急ぐ奴《やつ》にはやっばついていけねえ。どうも俺《おれ》にはこういうのは向いてねえみたいだし、田舎《いなか》に帰って親父《おやじ》のトウモロコシ畑でも手伝うかな——」 若いテロリストの脳裏には、もはやグースの顔を思い出す事すら出来なかった。 所詮《しよせん》グースとは、その程度の存在でしかなかったのだろう。 身を凍《こお》らせる冬の風に晒《さら》され、憐れな男の死体は急速にその熱を失いつつあった。 [#改ページ] エピローグ『不良集団』 捜査《そうさ》もひと段落し、一時的に車庫に入れられたフライング・プッシーフット号。 警察も一時的に引き上げたその車輌《しやりよう》の中に、複数の人影がひっそりと佇《たたず》んでいた。 「やばいよな」 「やーばいネェー」 食堂車のバーテンダーであるヨウンと副コック長であるファンは、列車にジャグジー達を手引きした張本人《ちようほんにん》だ。本来ならバレる事も無いまま列車は|N Y《ニユーヨーク》に到着する予定だったのだが、どうにも面白《おもしろ》くない状況に陥ってしまっていた。 「クビだと思うか?」 「下手《へた》すりゃネー」 ジャグジーが黒服の集団から食堂車を奪還《だつかん》する際、二人は銃《じゆう》を手に思い切り場を仕切ってしまった。銃器《じゆうき》を使い慣れている上に、列車を占拠《せんきよ》すると言った若者の仲間だという事もバレバレだ。幸い、ジャグジー達の貨物|強盗《ごうとう》がばれていない為に警察行きは免れたが、全《すべ》てが終わった後にこうしてコック長に呼び出されるハメとなった。少なくとも二人はそう考えていた、 「クビになったらどうするよ?」 「オレの姉貴がウエイトレスやってル蜂蜜《はちみつ》屋で、コックとして雇ってモラうかネぇ」 「蜂蜜屋ってなんだよ?それにお前、問題起こしてチャイナタウンを追われたって……」 「後で姉貴も追い出さレタよー。連帯責任だっテ。そんで|伊太利亜《イタリア》の人達二拾われタってヨー。んで、聞いた話じゃそいつらが経営してル蜂蜜屋の奥の闇《やみ》酒場、そこで働いてルってヨ」 淡々と語る相棒に対し、ヨウンは虚空《こくう》に目を向けながら呟《つぶや》いた。 「ああ……闇酒場か。バーテンも募集してないかな」 彼の気だるげな声を最後に、二人の周りに重苦しい沈黙が圧し掛かる。 二人の座っているカウンター席の周囲には、腹の虫をうならせる芳烈《ほうれつ》な香りが漂《ただよ》っていた。 厨房《ちゆうほう》の奥からはコック長がシチューの大|鍋《なべ》をかき混ぜる音が聞こえてくるのみで、沈黙の中に響くその音に、ヨウン達の不安と食欲はいやが上にも増幅《ぞうふく》していった。 不意に厨房から物音が消え、コック長の熊《くま》のような声が静かに響いて来た。 「お前らな、明日からこの列車に乗る必要はねえぞ」 ヨウン達はその言葉に対し、ある意味では安堵《あんど》したかのような表情で溜息《ためいき》をついた。 「クビですか?」 半分は予測していた答えだ。覚悟《かくご》があった分ショックも少ない。ところが—— 「クビもへったくれもあるか。この車内食堂自体が無くなるんだよ」 「は?」 「ハイー?」 これには逆に戸惑《とまど》いの色を見せる二人。そんな様子に耳を傾ける事も無く、コック長の声は淡々と事実を語り紡《つむ》ぐ。 「俺《おれ》らのテナントを入れてる企業様がな、この列車自体をなかった事にしちまうんだってよ。お前らは事故を隠蔽《いんぺい》するための小細工で失業するってわけだ。勿論《もちろん》俺もな」 予想外の展開に、ヨウン達は顔を見合わせる。それならば、何故《なぜ》自分達だけここに呼び出されているのだろうか。 「こっからが本題だ。俺の知り合いのジェノアードさんってえ金持ちがな、コックとバーテンを探してんだ。俺は本店のオーナーに無理言って戻らせて貰うから、手前《てめえ》らはちょっとその金持ちん所で働いて来い。バーテンダーまで雇おうなんてえ金持ちだ。文句はねえだろう」 目を丸くするヨウンとファン。彼らの意向を聞こうともせず、コック長は話を強引に押し勧めていく。 「手前らがどんな連中とつるんでいようが、どんな悪党だろうがそれは構わねえ。コックとバーテンとしての腕が確かなのは俺が保証する。それに、バーテンとコンビでっつったらお前とヨウンしか思いつかなかったんでな。今は|N Y《ニユーヨーク》の別荘にいるらしいから、明日にでも挨拶してこい。いいな!」 有無を言わせぬ口調に、ヨウン達は思わず頷《うなず》いてしまった。しかし、心の底では自分達が信頼されていた事を嬉《うれ》しくも思っていた。 「シチューが煮えたぞ。食ってけ」 厨房《ちゆうぼう》の奥から聞こえる声に、二人は始めて声を揃えて返事をした。 『戴《いただ》いてきます!』 ところが、彼らの笑顔はコック長の次の一言で凍《こお》りついた。 「そうか。この百人分のシチューが無駄《むだ》になってどうしようかと思ってたんだが、これでひと安心だ。食うと言った以上は残すなよ。余らせたりしたら手前《てめえ》らの手首から先を煮込んでブイヨンにしてやるから、そう思え」          ⇔ 「と、いうわけで見舞い品だ。食え。精がつくそ」 「オマケに美味《うま》イとキテル!こりゃ食わなきゃ死ぬネ!オレらに呪《のろ》われテ」 百キロは優に越えていそうな大|鍋《なべ》を前にして、ヨウンとファンがあからさまな作り笑いを浮かべている。 「か、勘弁《かんべん》してよ」 鍋を挟んだ反対側のベッドでは、ジャグジーが本気で泣きそうな表情で横たわっていた。 フレッドが経営する外科医院。その病室の中で、ジャグジーはベッドに寝転んでいた。取りあえず入院という事になったが、どうにか数日で退院できるそうだ。 ジャグジーの隣のベッドではジャックが、その更に向こう側の床ではドニーが大いびきをかいて眠《ねむ》りについていた。ドニーはヨウン達に言われて鍋をここまで運んだのだが、そのついでに中身を二十人前程平らげてしまっていた。 それでも鍋からはシチューが無くなりそうな気配は感じられない。百人分という話だったが、実際にはもっと多くの量が籠《こ》ゆられているのではないだろうか。 他《ほか》にいるのはニースとニック。要するに、列車に乗っていた仲間達がここに勢揃いしていたという事だ。このシチューをどうしたものかと話していると、急に部屋の外が騒がしくなった。 「なんだ?随分いい臭《にお》いがすんな」 「おい、お前らだけずるいそ。俺《おれ》らにも食わせろや」 すると、ドアからジャグジーの仲間達が次々と湧《わ》いて出て来るではないか。 「みんなぁ!」 ジャグジーの声が明るく弾む。そのうち何人かは『回収組』として、列車から川に落とされた爆弾を船で回収した面々だ。 「おう、ジャグジー!あの爆薬な、知り合いの採掘場のおっちゃんとハリウッドの映画技師の奴《やつ》に裏で買い取ってもらってよ!無茶無茶高値で売れたぜ!大儲けだ!十万ドルだぜ十万ドル!すげえだろ!」 「あの手榴弾《しゆりゆうだん》の陶器もよー。中身抜いたのが一個二百ドルで売れたぜ」 怪我《けが》の心配より先に金の報告をする仲間達。ジャグジーはそんなストレートな仲間達が大好きだった。 「そっかあ、良かったあ!」 「でもよ、ジャグジー。お前もうシカゴにゃ戻れねえぜ」 シチューを美味《うま》そうに頬張《ほおば》りながら、仲間の一人が淡々と事実を告げる。 「え?」 「お前の部屋も全部マフィアどもにバレててよ、近づいたらそれだけで蜂《はち》の巣にされるぜ」 「そ、そんなあ!」 ジャグジーの顔が真《ま》っ青《さお》に染まる。 「まあ、このままニューヨークに移っちまおうや。他《ほか》の連中もこっちに向かってるよ」 「うう、簡単に言うなあ……」 瞳を潤《うる》ませるジャグジーに対し、仲間達は一転して明るい話題を持ち出した。 「そうそうジャグジーよぉ。お前、空から美女が降って来たっつったら信じるか?」 「飛び降り自殺?」 「ちっげーよ馬鹿《ほか》!ほら、お前らが落とした荷物を回収してたらよ!その箱の上に捕まって浮いてたんだよ!肩を怪我してたんだけど、すっげえ美人でさ!ニューヨークにいるんだったら仲間になってくれるってよ!無口で清楚《せいそ》な娘《こ》だぜ?さっきここの医者に怪我を見て貰《もら》ってたとこだ」 「へえ、そうなんだ?もしかして列車|強盗《ごうとう》の被害者なのかなあ」 少しの間考えて、ジャグジーは顔の刺青《いれずみ》を無邪気《むじやき》に歪《ゆが》ませる。 「ちょっと会ってみたいね」 「おう、紹介するよ。入りな、シャーネ!」 ドアから入って来た黒いドレスの美女を見て、ジャグジーはニコニコと新しい仲間を迎え————ニースとニックは、持っていたシチュー皿を派手《はで》に取り落とした。 [#改ページ] エピローグ 『フライング・プッシーフット』 数日後ニューヨーク某所 「で、君はそのお金の半分で切符を買って、一体何を得たのかな」 チャイナタウンの某所。鳴り響く電話の音に紛《まぎ》れ、レイチェルに声がかけられる。 レイチェルもまた、その声に負けないような大声で答える。 「解《わか》りません。何かもう疲れました」 彼女にしては珍しく敬語を使っている。相手は、取引先である情報屋の社長だった。 書類の束に阻《はば》まれて相手の顔は窺《うかが》い知れない。だが、レイチェルは相手が笑っているような気がしてならなかった。 「まあ、その経験を今後に生かすも忘れるも君次第だよ」 「そんなことよりも、あのヒゲ豚《ぶた》を自分の手で殴《なぐ》れなかったのが心残りです」 レイチェルの悔しげな声を聞いて、顔の見えない情報屋はこう尋ねた。 「あの事件の後始末に関する軽い情報があるんだが、聞くかい?——タダにしておくよ」 「納得できませんな!私は断固として訴えますそ!列車の警備については勿論《もちろん》、あの忌々《いまいま》しい田舎者《いなかもの》と黄色い猿《さる》の件についても!」 鼻息を粗《あら》くするちょび髭《ひげ》の太った男。彼はクレアに肩を外《はず》された後、目覚めてからずっとトイレの中で痛みと恐怖に震えていた。全《すべ》てが終わった後で警官隊に発見された。肩を嵌《は》められる際に泣き喚《わめ》いてしまい、食堂車にいた乗客達の失笑を買った。 大手鉄道会社の幹部であった彼にとっては耐え難い|屈辱《くつじよく》であった。その怒りの代償《だいしよう》として、あの列車の持ち主である企業『ネブラ』を訴えようと働きかけた。ところが、その動きに直前で邪魔《じやま》が入った。 ネブラの応接室でチョビ髭の応対をするのは、『無表情な笑い』という矛盾《むじゆん》を顔に貼り付けた中年の役員だった。 「それは困りますなあターナーさん。我々としては十分|補償《ほしよう》はさせていただきますし、鉄道旅行のイメージが損なわれるのは貴方《あなた》にとっても良い話では無いでしょう」 「関係ありませんな!私は金ではない、プライドの問題として……」 その時、応接室の電話が音を立てる。 「お話の途中申し訳ございませんが、貴方にお電話のようです」 無表情のまま告げる役員から、チョビ髭ターナーは受話器を奪い取った。 「私だ!誰だ貴様……は……」 電話に出たターナーの表情がガラリと変わった。顔を青くし、冷や汗を流しながら会話を続ける。やがて受話器を置くと、役員の顔を疲れた顔で睨《にら》みつけた。 「汚《きたな》いぞ、政治家を持ち出すとは………」 「ベリアム議員も、今回の事件をあまり公にはしたくないようでしてね。この時代では完全に事件を隠蔽《いんぺい》するのは不可能ですが、その存在を希薄《きはく》にする事は可能です。今回の事件で乗客に死者はありませんでしたので、あまり事を大きくはしたくないのですよ」 「し、しかし」 「ターナーさん。貴方もかつて自分の過失を技師になすりつけた事があるそうですな。我々としては、当時の技師達に再証言をお願いしても構わないのですがね。好条件で引き抜くと言えば、きっと皆さん正直になってくださいますでしょうから」 チョビ髭ターナーは顔を真《ま》っ青《さお》にし、それ以上は何も言えずに部屋を出て行った。 その背に、役員がとどめを指した。 「因果は巡るものですね、ターナーさん。上院議員に睨《にら》まれたんです。頑張《がんば》らないと会社に捨石にされてしまいますよ……」 「と、言う事だそうだ。少しは気が晴れたかな?」 「なんでそんな情報を知ってるんですか?」 「そのヒゲ豚《ぶた》さんの過去に関する情報を役員に売ったのは私だからね。その引き換えだよ」 鳴り響く電話の中、その声はこともなげにレイチェルに告げた。 「情報は、使わないと腐《くさ》っていくものさ。職人の腕前と同じような物だからね。君の『過去』という情報を勝手に使ったのはすまなかったと思っているよ」 暫《しばら》くレイチェルは黙っていたが、やがて書類の束の奥に向かって口を開く。 「次から交通費を請求していいですか?何となくですが、無賃乗車は止《や》める事にしました」 「私は全く構わないよ。それでいいのさ。『何となく』っていうのは大事な事だ。自分の感性を信じるのはとてもいい事だと思うよ」 書類の奥の声は情報屋らしからの事を言うと、最後にこう付け加えた。 「ただし、領収書を忘れずに」          ⇔ ベリアム上院議員の政治力と鉄道企業の財力によって、『フライング・プッシーフット』の事件は無かった事にされつつあった。一般人の被害者は一名。シカゴの下水道で発見された車掌《しやしよう》を殺した犯人は、今だに逮捕されていない。警察も捜査《そうさ》に本腰を入れておらず、フライング・プッシーフット号で起きた事件との関連性は無いと判断した。 その犯人は既にこの世に存在しない。 車掌室で見つかっった顔面の無い遺体は、クレア・スタンフィールドとして処理された。 列車自体は機関|車輌《しやりよう》を残して廃棄《はいき》され、その車体は郊外の公園にひっそりと佇《たたず》んでいた。 不思議な事に、その列車はある一部分だけが欠落していた。最後尾《さいこうび》の車輌の屋根の一部が、展示後に何者かの手によって持ち出されていたのだ。 そして、1933年12月5日。 禁酒法の廃止が決定したこの日、その列車は歓喜に踊る民衆の手で滅茶苦茶《めちやくちや》に壊され、そのままスクラップ置き場のクズ鉄に紛《まぎ》れて消えていった。 禁酒法と共に全米を闊歩《かつぽ》した『|空飛ぶ禁酒屋《フライング・プツシーフツト》』。 法の終焉《しゆうえん》とは対照的に、それはあまりに寂しい最期《さいご》の姿だった。 事件の『舞台』は闇《やみ》から闇へと葬《ほうむ》り去られ、その行方《ゆくえ》はもう誰にも解《わか》らない。 ※この本は分冊になった内の二冊目ですので、『これだけ読んだけどよく解《わか》らなかった』という御方は、先月発行された『バッカーノー1931The Grand Punk Railroad 鈍行編』を御一読いただければ幸いです。 あとがき まず、本文とは関係無いこの部分にまで目を通して戴《いただ》きまして、真に有難う御座います。 いつも同じような書き出しで恐縮ですが、あいかわらず後善きに何を書いていいのやらさっぱり解らない日々が続いているのが現状でして。 しかし、最近は『あとがきを見て本を買うかどうか決める』という方が増えてらっしゃるようです。どうなのでしょう、あとがきと本編で文体から雰囲気まで全《すべ》て異なる作家さんだった場合には、やはり買った後で『あとがきに騙《だま》された!』と涙で本を濡《ぬ》らす人もいるのでしょうか?そのあたりは実に気になる所です。 ——閑話《かんわ》休題—— さて、今作ではほぼ全体に渡り、『列車』という限定された空間で話を進めてきました。 様々なジャンルのメディアで描かれるこの列車というギミックではありますが、やはり面白《おもしろ》い所はその列車という素材そのものが持つ特殊さにあると思います。これまで私は『移動する密室』とも言えるこの舞台を、様々な分野の様々な話ごとに、それぞれ異なる使い方で魅《み》せられてきました。移り変わる景色や旅人、線路・道などの直揄《ちよくゆ》、暗喩《あんゆ》などを交えながら、その利用の仕方はまさしく千差万別《せんさばんべつ》です。鉄道という存在は、そうした点が特に顕著《けんちよ》に現れやすい舞台装置の一つなのではないでしょうか。 いつかまた、今回とは違った方向で列車を扱った話を書ければと思いを巡らせる毎日です。 今回の話は前作と同じ時間|軸《じく》に起きた事件を、異なる視点のもとに異なるキャラクターを中心として書かせていただいたわけですが—— これは特別|斬新《ざんしん》というものでもなく、視点を変えるというのは様々なジャンルで使われている手法の一つです。最近では、特にゲームという媒体《ばいたい》の中で使われている印象があります。そうした多種多様な手法の一つとして存在するこの構成を用いて、できるだけ馬鹿《ばか》な話を書きたい。そう思いながら執筆を行って来たのですが、果たして読者の方々にはどう受け取られているのか全く想像がつきません。 『くだらない上に馬鹿な話。だが、面白い』———そう言っていただければ、それは恐らく最高の褒《ほ》め言葉です。少なくともバッカーノと名のつく作品では、そのような作品作りを念頭に置いて努力していくつもりです。 ちなみに担当の鈴木《すずき》氏に最初に鈍行・特急編両方の原稿をお見せした際には『クレイジーだ』という短い言葉を戴《いだだ》きました。……どうしろと。 今後、バッカーノ以外のシリーズや単発作品も色々書いて行きたいところですが、馬鹿《ばか》な話や馬鹿じゃない話、中身の全く無い話やそこそこある話、色々な方向性の話を描いていけるように力をつけて行ければと思っております。 最低でも営業部の方々に『お前の本は売れないからもう何も書くな』と般若面《はんにやめん》で脅《おど》されないように日々の研鑚《けんさん》を積み重ねながら、最終的には自分にも読んでくれた人にも何らかの影響を与えられるような作品を書き続けられれば——というのが当面の目標です。 ぐ……なにやら前回も同じような事を書いた記憶が……。 ともあれ、私も電撃文庫の他《ほか》の作家さんを見習い、自分だけのあとがきスタイルの様な物を確立できるように色々と試みていきたいと思いますので、今後とも宜《よろ》しくお願い致します。 ※以下は例の如く御礼関係の話になります。 今回の出版に関して、いつも御迷惑をおかけしてしまっております担当の鈴木編集長、並びに営業・宣伝、編集部の皆様。 毎回誤字脱字誤文等をチェックして戴いております、校閲の皆様。 様々な面でお世話になっている家族並びに友人知人、特に『S市』の皆様へ。 hpでお世話になりましたおかゆさん&とりしも先生と、撲殺《ぼくさつ》担当編集のうにまるさんへ。 新しい絵を拝見することにキャラクターが進化していくような、そんな素敵《すてき》なイラストでこの本を一段も二段も上の高みに引き上げてくださったエナミカツミ様。 そして忘れてはならない、この本を手にとって下さった読者の皆様へ。 毎度毎度、本当にありがとうございます! これから先、作品も後書きも様々な方向に進んで行く事になるかと思います。今後とも皆様には、そうした駅から駅へと進むぶらり旅にお付き合い戴けますよう———— 2003年6月自宅にて 「PARTY7(石井克人監督作品)』のオープニングアニメーションを繰り返し流しながら。                                     成田《なりた》良悟《りようご》 [#改ページ] ◎成田良悟著作リスト 「バッカーノ!The Rolling Bootlegs」(電撃文庫) 「バッカーノ!1931 鈍行編The Grand Punk Railroad」(同) [#改ページ] 電撃文庫 バッカーノ! 1931 特急《とつきゆう》編《へん》  The Grand Punk Railroad 成田《なりた》良悟《りょうご》 発行 二〇〇三年九月二十五日 初版発行 発行所 株式会社 メディアワークス 発売元 株式会社 角川書店 2009年03月06日作成/校正 —————————————————— 誤植? 24行 情報屋の名に恥じる→恥じぬ? 1491行 ヂューン→デューン